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20139/2

映画「風立ちぬ」の抒情性について・10の断想(前川英樹)

この原稿を書き終えたところで、宮崎駿が長編アニメーション映画制作から引退するというニュースを知った。だが、それを知ったからと言って、「風立ちぬ」が私たちに残したものが変わるわけではない。

 

 

1. 良く出来た上質のメロドラマだ。
宮崎アニメを初めて観た。良く出来た上質のメロドラマだ。いうまでもなく、メロドラマはエンタテイメントの大事なジャンルだ。
ここには、メロドラマの条件、愛に対するいくつもの制約がちゃんと用意されている。
時代の閉塞状況、出逢いの劇性(“君の名は”みたいだ・・・)、場所的隔絶(会うための、あるいは別れの距離)、それによる移動のための二重拘束性(仕事による束縛とその仕事への自己献身)、死=生命の危うさ、など。ここにないのは家族のしがらみとか邪魔立てくらいだろう。
泣かせる。

 

 

2.堀辰雄の「風立ちぬ」
加藤周一の「日本本文学史序説」には(下・P466~7)、堀辰雄について、芥川龍之介やその友人佐藤春夫、菊池寛と関係づけつつこう書かれている。[]は引用者

前川3

 

<洋の東西にわたる文学的古典を通して芥川[龍之介]の定義した文学概念を継承したのは、おそらく堀辰雄(一九〇四~五三)である。三十年代の末に、佐藤[春夫]や菊池[寛]が戦争宣伝にまきこまれていったとき、堀は東京と軍国主義から離れ、病の身を信州に養いながら、「風立ちぬ」を書いた(一九三七)。結核療養所を中心として信州の高原に隔離されたその小説のなかでは、季節の変化と女の病の一進一退の他には、ほとんど何事もおこらない。その描写が人物の内面の微かな気分のゆれ動きに集中しているという点では、たとえば平安朝の女流の日記(殊にたとえば『かげろふ日記』)に似る。そういう前半の話があって、女の死後、男の内面での死者との対話から成る後半が続くのである。その構成は、ほとんど夢幻能のそれ思わせるだろう。堀は後に、「風立ちぬ」の世界を小説的に拡大して、「菜穂子」(一九四一)を太平洋戦争の始まった年に発表した。軍歌鳴りひびく街のなかで、「菜穂子」は谷崎潤一郎の『細雪』と共に、ほとんど軍国主義に対する文学的抵抗のようにさえみえた。>

 

 

3.宮崎駿は、堀辰雄の「風立ちぬ」の世界の中で零戦の設計者堀越二郎の生を描こうとした。観る者の気持を揺さぶる作品が出来た。だが、「風立ちぬ」⇒「菜穂子」⇒「文学的抵抗(にさえ見えた)」という加藤周一の視点立つと、そしてそれは宮崎の思想と遠くないものと思えるのだが、そこにはやはり少し無理があるように思える。その微妙な違和感はどこから来るのだろう。

 

 

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