映画「風立ちぬ」の抒情性について・10の断想(前川英樹)
6.戦闘機としての零戦は一騎打ちの武器だった
「坂井三郎空戦記録」(講談社 1992)という本がある。
著者略歴によれば、「昭和十二年霞ヶ浦海軍航空隊操縦訓練生 首席卒業。初陣の昭和十三年以来、九六艦戦、零戦を駆って太平洋戦争の最後まで大空で活躍二〇〇回以上の空戦で敵機大小六四機以上を撃墜したエース(撃墜王)」とある。
8年間で64機。たった!
「太平洋上に敵なし」と設計者本人が書く(前掲書)ほどに戦闘能力に優れた零戦を、坂井三郎というもっとも技量の高いパイロットが操縦して撃墜した敵機が8年間で64機だ。大艦巨砲主義から航空機へという近代戦の戦術転換の象徴的存在でありながら(日本はその意味を戦略として理解しなかった)、戦闘機の戦力を個別の撃墜数としてカウントする思考から抜け出せなかったのだ。空中戦を一騎打ちか決闘の思想でとらえていたのだろう。これでは、長篠の戦の織田信長の方が近代的ではないか。(・・・これって、何だか山田風太郎的発想みたいだ。)
そして、その延長に零戦による特攻がある。今年の終戦関連のNHKスペシャルの一つは「零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争」(前後編)だった。
7.リヒャルト・ゾルゲ
「風立ちぬ」には軽井沢のホテルに滞在するカストルプというドイツ人が登場する。リベラルな時代認識でナチ政権を批判する。これは、リヒャルト・ゾルゲがモデルなのではないだろうか、フトそう思った。もしそうだとしたら、そこから別のドラマがありえたであろう。
8.中間層の抒情としてのロマンチシズム
戦前の中間層は、大学卒のサラリーマン・官吏、小規模実業家、大学教員、作家など芸術分野の人々、言論・出版関係などの自由業の人々、などなどである。旧中間層とはこの人たちであり、都市部ではモボ、モガ(モダンボーイ、モダンガール)を生んだ層である。
宮崎自身がそうなのだろうが、この中間層の世界(上流・大富豪たちではない人々)の言葉と生活が、宮崎的抒情の原点であろう。そこに、堀辰雄の世界との交点がある。それは、軽井沢や富士見高原のホテルやサナトリュウムや洋間のある生活空間を包摂する文化圏に生きている人々の世界である。
そして、言葉。 「お父さま」「お母さま」「にいにいさま」(二郎兄さん、または二番目?の兄さん)などなど。
宮崎と私は同じ生年である。それらは、宮崎や私の出自の背景であり、父たちの世代の生活だった。私が物心ついたとき、身の回りではそれらはすっかり解体され、失われていたが、どこかにそうした抒情の記憶は残っている、今も。
本当にそれが失われたのは、つまりその継承性が断絶されるのは、敗戦ではなくて、1960年代以後の高度経済成長の過程であろう。とするならば、この映画の抒情性の根は<そこ>、つまり「失われた、あるいは“あるべきはず”のモダン」というものであろう。ロマンチシズムといって良い。
ところで、<それら>は失われずにいられただろうか。今に至る道筋の中で、このように失われたかどうかは別にして、失われなかったことを想定出来るだろうか。これを歴史における想像力の問題という。
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