「尖閣ビデオ<流出!>とテレビの現在」-前川英樹
いわゆる「尖閣列島沖の衝突」ビデオがネットに流出(これを流出というのだろうか?)し、海上保安官が「それは私です」と名乗り出た(11/11段階はここまでだ)。そもそも、事件当初に公開すべきものだったのだから何が悪い、それがというものだというのが、この映像を見た人たちの多数派らしい。国民感情というものの不確かさと危うさ(とまではっきり言う例は稀だが)で外交が出来るか、という見解ももちろんある。「あやブロ」は、それらの当否を議論する場ではないだろう。いや、最初からそう決めるべきではない。事と次第では「あやブロ」が最も優れた議論の場になったって不思議ではない。が、それは事と次第、つまりの問題である。
ただ、事態が流動的だという事情もあるのだろうが、このビデオ流出とネットあるいはテレビが形成する言論空間の問題、というメディア論的観点からの提起は今のところあまり見られない。それは、ネット上に流れた映像やそれに伴う議論と、マスメディアの報道との間に余りずれがないからだろう。これまでは、そのズレ自体が論点を構成してきた。
例えば、マスメディア(この場合はテレビだろう)にこの映像が持ち込まれたら、どうしただろう。こう想定するメディア関係者はいる。もちろん、その場合それはではない。テレビ局はそれを放送するかどうか、放送局が報道した場合の反響や公権力との関係、そして外交への影響を考えると、相当逡巡し、おそらく事前に政治的措置をした上で、限定的に(編集権の担保)放送したであろう。そのややこしさはにより省略され、流出映像の報道利用とその反響の収集整理という単純な立場にマスコミは身を置くことができた。つまり、マスコミ=ジャーナリズムの社会的役割などという論点が成立しないまま、自体は推移している。「知る権利」というシビアーな概念が、マスコミの中を通り抜けている。
かつて、「秋葉原連続殺傷事件」を巡って、ネット上に寄せられた意見とメディアの社会的機能について交わされた議論で、2チャンネルという言論空間のリアリティーとマスメディアの関係が提起されていた。例えば、大澤真幸氏は「2000年前後から、(メディアの)犯罪者への関心が急速に下がって、おおむね『変な人がいるものだ。それよりセキュリティーだ』となってきました」と指摘し、東浩紀氏は「マスコミの言論が社会的包摂機能を失っているのではないか・・・ネットでは加害者への幅広い不定形の共感が見られた」と分析している(これについてはメディアノートNo.105ココをクリック)。
そして、それから2年、今年の前半に新たな「論壇」について、東浩紀氏は「(「ダダ漏れ女子」のそらの のゲリラ中継を評価しつつ「彼女の活動もまた、社会変革への提案という点で『論壇』の一部と見なすべきだろう」「おそらく今後は、緊急性や共感度が高い言説はリアルタイムネットで即座に拡散し、硬質な論考は論壇誌あるいはブログに『ストック』されるという一種の棲み分けが進行するだろう」と語っている。そこでは既にテレビは議論の外に置かれている (メディアノートNo144ココをクリック&No145ココをクリック)。
学者や評論家が何を言うか、と思う向きもあるだろうが、少なくとも私の知る限りでは、こうした言説は相当キチンとした、説得力のあるレベルにあると思う。もう一つダメ押ししておこう。「二十世紀後半まで続いた『十九世紀的な知』は、先行したマスメディアの形式を模倣するように・・・『歴史学』的な、線形で不可塑的なイメージを持っていた」「(二一世紀的知は)格子状の全体から『知』を自由に出し入れする可塑的なもの」だというのは前田塁氏(「紙の本が亡びるとき」)である。テレビ的とウェッブ/デジタル的というのはこのことだ。であればこそ、「19世紀的なるもの」の悼尾を飾る役割として登場したテレビの意味は何か。意味を問わずに済んだ時代は終わったのである。
テレビとネットを二項対立として捉えるのは無理だということを、「あやプロ」第1回にリンクさせた文章で書いた(「『テレビの存在理由』を問い直す時」/ココをクリック)。情報世界は全体としてとしの機能しているのであって、より基底的あるいは包括的存在は今やウェッブ&デジタルであり、そのなかでどのようにテレビが存在理由を構築するかが問題だ、と書いた。大胆ですねェとも言われたが、間違いなくそう思っている。テレビに可能性がないなどと思っているわけではない。可能性があるからこそ、そういうのだ。
そうだとして、「尖閣ビデオ流出」はテレビメディアにとって何だったのか、それこそがテレビが考えることであり、テレビというメディアを通してそれを視聴者に問い、その問いのなかから視聴者(=ユーザー)との新たな関係を見出すべきだろう。これからも、益々ネット上に流れる情報の後追いをテレビはするようになるだろう。それはあながちダメなことではない。ダメなのは、そうすることで「楽ちん」をすることなのだ。テレビが形成する言論空間が、ネットの後追いをしながら国民感情論にお墨付きを与えるような怠惰な振る舞いの場になるのなら、という近代の陥穽にからめとられるであろう。免許事業という権力関係を内包しているという構造的危うさを逆手に取るところにこそ、テレビの主体性があるはずだ。(ウェッブ上の個々の意見ではなく)ということに自己限定しているインターネットそのもののノー天気さに拮抗するのはそれしかないのである。
*.11月12日の朝日新聞朝刊「耕論」で、4人の識者?が夫々の視点からこの問題を論じている。共通しているのは、ネット時代の政府機能のあり方である。それを、ネット時代のマスメディア(=テレビ)に敷衍して考えることだ。何故といって、マスメディアは健全な民主主義にとって不可欠だ、とメディア自身が言い続けてきたからだ。
TBSメディア総合研究所”せんぱい” 前川英樹
前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは”蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいからNHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。
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