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20127/9

7・9【メディアと時間についての断章と最近のいくつかのポストについて一言】前川英樹

 

 

たまには、前置きなしで入ろう。

1.  近代国家は国家として成立するために様々なものを管理しようとした。時間管理は身体の管理(学校や軍隊)と並んで、極めて大きな意味を持ったと考えてよい。

2.  例えば、あの広大な中国で、時差が採用されていないのは、そう考えればなるほど、ということなのだ。

3.  放送による<時報>の告知は、国民が時間を共有するための手段だっただろう。

4.  放送と国家(権力)は、時間管理において(敢えて言えば)共犯関係にある。その意味で、新聞・雑誌が権力への異議申し立てを専らにしつつ近代ジャーナリズムとして成立していったのと違って、放送は出自の時にそれらとは異なる関係に置かれた。

5.  放送法制で「言論表現の自由」が語られる時に、「国民の知る権利」との関係で語られるのは、電波の公共性や社会的影響力特殊性だけではなく、こうした放送の出自において孕んでいた構造的な危うさへの警鐘でもあるはずだ。

6.  戦前の放送による国家プロパガンダへの反省は、こうした放送の構造にまで踏み込んで考察されるべきだろう。

7.  「いまテレビ放送が一秒の狂いもなく整然と流れていることは放送局がいまの社会に提示している明確な一つのオピニオンとしてとらえるべきではないだろうか」。かつて、村木良彦は「今のテレビはオピニオンを持っていないからだめだ」という指摘に対してこのように語っている(「テレビジョンの<歴史>と<地理>その二」・「ぼくのテレビジョン」293ページ)。

8.  その村木が「テレビジョンは時間である」と明確に主張したのはなぜか。

9.  第一に、近代国家が放送(無線)によって時間管理をしようとしたことは、無線そのものの管理を意味するのであり、それは無線が管理されざる時間を創出しうることを国家が知っていたからだろう。国家にとっての危険性とメディアとしての可能性の二重構造を村木は見抜いていた。

10.第二に、テレビ的表現は、活字とはもちろん映画とも違う「何か」があるはずだという模索は、草創期のテレビの混沌とした状況の中でも試みられていた。萩元晴彦が「テレビは映像ではなく、時間である」と直感し、和田勉が「テレビは液体である」と言ったのは、テレビメディアには「テレビ的時間」があると知ったからだ。テレビ的時間とは、なによりもライブ性であるが、表現論としてはモンタージュではなく、「時間の記録」ともいうべき方法の発見につながった。このことを村木は強く意識していたことは疑いない。

11.ついでに言っておけば、コンピューターによる画像・音響処理は眼が眩むほど多様な手法を登場させているが、表現の問題としてどれほど意識されているか。方法論とはテクニカルな問題ではなく、思想の問題=テレビとは何かという問題ではなかろうか。

12.さて、ここまで大雑把に放送、特にテレビと時間の関係をスケッチしてみた。その上で、6.21の志村ポスト「テレビが時間を取り戻すには」などについてコメントしてみよう。

13.「ソーシャルメディアが成立する前のマスメディアは、知らずのうちに自分たちだけが、絶対的なリアルタイム性を刻むと考えるようになったと言えよう」というのはそのとおりである。

14.その上で、「リアルタイム性そのものが多層的」とは、多様なメディアによる多様な時間の成立をいうのである。

15.パーソナル・メディアとソーシャル・メディアの拡張により既に常態化していた「時間の多層化」が、<3.11>という突出した状況で一挙に露わになった。「3.11がメディア状況をスキャンした」とは、このことをいう。

16.「では、自身の『リアルタイム性』が相対化されたテレビは、どう生きればいいのだろうか」という問いを設定して、志村さんはこう答えている。「テレビがソーシャルメディアの『タイムライン=リアルタイム性』を取り込むことは、テレビが再び信頼を増すことに繋がるだろうか。自分は全くそう思わない」と。

17.これは、半分Yesで半分Noだ。ソーシャルを取り込んだからといって、テレビの時間性の相対化はカバーできないという意味ではそのとおりだが、だからと言ってテレビの時間性そのものが成立しないわけではない。(なんとも言うけど)3.11のライブの津波映像はテレビの(テレビというシステムが可能にした)時間性そのものである。

18.5.17の「テレビ三角論」で、「複雑な情報の『空間』を形成するには、自らの思考から生まれる視点を『提示』し続けるほか手段がない。そして、それこそが空間を埋めるコンテンツと呼ばれるものである。『展示』に寄りかかるキュレーションやシェア、そして『状況』への脊髄反射はソーシャルに任せ、テレビは自らの価値を自分たちで作り出すしかない。」と志村さんは書いていて、それはそうだと思うのだが、しかし「空間を埋めるコンテンツ」も「自らの価値」も、リアルタイム性あるいは時間の記録性と相反しない。つまり、それぞれのメディアがそれぞれの時間性をどれほど有効に機能させるか、という問題であって、当然テレビにとってもそうなのだ。

19.テレビの時間性の相対化」とは、何処か(あるいは、別のメディア)に絶対的な時間が成立したわけではない。いま、私たちは近代の時間そのものの相対化の時代(均質な時間の解体過程)に入りつつあるのではなかろうか。そうだとすると、ことは相当重大だと思われる。(もちろん、一方では世界市場に見合ったグローバルな時間も機能している。)

20.インターネットの、あるいは現象的に言えばソーシャル・メディアの普及が惹き起こしているのは実はそういうことであって、「革命的」という言葉が相応しいとすればこのことを指すのである。

21.もちろん革命的状況とは、そんなに直ぐにすっきりと分かりやすく現象するものではない。当分の間は混沌としたメディアの相関図が継続されるであろう。

22.私たちは、客観的で均質な時間を手にすることは、もはやないのかもしれない。全ては相対化される時代が到来しているのだろう。現代の閉塞感や不安定感は、経済状況や政治の空白化によるものだけではないだろう。

23.いずれにせよ、メディアと時間の問題の根は深い。その分興味は尽きない。

24.前回(7.2)の“せんぱい日記”で「テレビは何を伝えてきたか」(植村鞆音・大山勝美・澤田隆治 ちくま文庫)を紹介したが、それを読んで思うのは、“あの頃”テレビはほんとにいい時代だったということだ。それは、魅惑的な、そしてある魔力を持った世界だった。テレビで仕事をすることは時代と並走することだった。どれほど自覚されていたかどうかはともかく、それは「自分たちが時間をつくっている」という感覚に繋がっていたのではないだろうか。鼎談ではそれが溢れるほどの心情を込めて語られている。だが、テレビがそれを取り戻すことはもうないだろう。

25.それにしても、「乗り越えるべきは、マンネリズムに陥ったテレビジョン。つまり、自分自身なんですよ。」という、大山さんのこの一言があって本当に良かった。

26.「放送人の会」(http://www.hosojin.com/)では、「放送人の証言」という作業を続けていて、間もなく200人になろうとしている。活字化も進めている。放送は十分に歴史的存在なのだ。そのことの大事さを放送そのものが受け止めなければならない。相対化の時代に自分のポジションが何処にあるかは、そのメディアが経験してきたものと無縁であるはずがない。放送は優れた「資産」を持っているのである。それは、ソーシャル・メディアにとっても価値あるものなのだ。いま、放送に必要なもの(いつでも必要なのだが)、それは想像力である。

27.6.19の稲井ポスト[「拡散力と収斂力」テレビ×ストリーミングで何がおきるか]でレポートされている「タイム・ストリーミング」という方法は、「ソーシャルを取り込む」のではなく、テレビ的方法によるソーシャル的試みの分かりやすい例だろう。ここに、一つの時間が生れる。稲井ポストには「触媒的創造」という言葉が登場する。良い言葉だ。

28.6・18の山脇ポスト【「発信」よりも「受信」が大事だぞ!ソーシャルメディア ~ある泊まりデスクのひとりごと~】でも、ソーシャルとテレビの同時進行が、現場感覚で語られている。そこから、新しい方法の発見に繋がることを期待したい。

29.6・27のウジポスト【赤ちゃんが示す『不気味の谷』とこわかった「ニセのウルトラマン」】で、ウジトモコさんは「先日、アノニマス(無名の)デザインの究極ともいえる『カタガミ展』が開催されました。その第1弾の東京展では専門家をはじめ多くの人々がその品質の高さ、技巧と独特のデザインの美しさを絶賛し、『KATAGAMI』が西欧のさまざまな美のリソースであった事を実感しました。」「次代を担うクリエイターであればやりがいと希望に満ちた時代の到来なのではないかと私自身は考えます。」と書いている。混沌と空白と喪失の時代のように思える状況の中で、こういう言葉に出会うと、やっぱり“希望“というものが存在するのだと思えてくる。気温30度、湿度90%の鬱陶しい気分の時に、スプーンで一掬いのシャーベットを口にしたような爽やかさを味あわせてくれた・・・時間論とは別の話だけど。

30.それにしても、書くのが遅くなった。正確に言えば、「書く気になる」のが遅くなったのだ。みなさん、リアクションが遅れてゴメン。

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

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    • Hideki Maekawa
    • 2012年 7月 09日

    新しい前川ポストです。
    「メディアと時間」というテーマは面白い。その面白さに反応してくれた志村さんに・・・反応が思わぬ展開のところがあるが、それも含めて感謝。その前後に投稿して魅力的なポストを作ってくれた、稲井クン、山脇クン、ウジさん、ありがとう。
    最後に書いたとおり、リアクションが遅くなってゴメン。
    それから、「テレビは何を伝えてきたか」は、たとえソーシャルメディアらついての目線にズレがあるにしても、テレビが何をしてきたかのレビューとして、とても読み甲斐のある本だ・・・何をしてこなかったかも含めて。テレビの特性がリアルタイム性にあるといっても、リアルタイムでどんどん忘却するのが得意なのは困ったもんだ。記録しておくことは大切だ。

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