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20113/4

[リビア・NZ地震・京大入試など、メディアとしてのインターネット―ネットを巡る事象と志村さんポストについて-] 前川英樹

*「メディアとしての」とは、ただの物理媒体ではなく、その媒体を利用した行為を含んだ、あるいは行為そのものという意味である。

□ 「ウェッブはバカと暇人のもの―現場からのネット敗北宣言―」(中川淳一郎/光文社新書)を遅ればせながら読んだ。2年近く前に出た本だが、その頃は話題になったのだろうか。氏家管理人のデスクの上にあったので、「ちょっと貸して」と言ったら、「結構面白いですよ」ということだった。この「あやブロ」にアクセスする人たちの多くは読んでいるものと思う。

□ この本終わりの方に、「ヤフーを筆頭とするメガサイトの圧倒的集客力と、グーグルによる検索結果に従うことにより、ネットは人々をより均一化したのである。もはや知識の差別化はネットではできない」、「あくまでも情報収集や情報伝達の効率的な道具として、インターネットはすばらしい。ただそれだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」と書かれている。つまり、いわゆるITジャーナリストや学者・研究者などなどの<インターネット革命>や<ネット至上主義>へのカウンターの書である。

□ 読んでみて、ネット上の行動の実態が分かりやすく書かれているし、その分析や評価についても「なるほどね」と思うことが沢山あった。「革命的」と「日常的」との間にはいつだってギャップというものがあり、その間を思考錯誤するうちに、それこそ新しい日常が成立していくのだろう。

□ ただ、そうはいっても、チュニジア・エジプト・リビア・・・そして、どこへ続くのかまだ先の見えない北アフリカ・中東情勢の流動化に、インターネット、特にソーシャルメディアの存在は大きかったものと思われる。まだ、事態がそれこそ流動の渦中のため、どれほどの役割をネットが果たしたのか分からないところもあるが、各地でネットが金持ちのメディアではない、ということは明らかになったように思う。今後、イランや中国で何が起こるか未知の領域だが、ネット抜きには事態は動かないと考えて良いであろう。それは、「それ以上でも、以下でもない」としても、である。

□ これは直観だが、「世界史は新しいステージに入りつつある」と思うのだ。その始点は何処にあったかと言えば、“9.11.WTC”ではなく、1989年のベルリンの壁解体だというのが、ぼくの認識にはある。そして、あの時のソ連邦崩壊・東欧革命の一つの要因が衛星テレビであったとすれば、間違いなく今回の状況にはインターネットが作用しているであろう。

□ 慶応大学教授の中村伊知哉氏が郵政省時代にパリに赴任していた経験を書いた本のタイトルだかサブタイトルが、「インターネット―自由を我らに―」というカッコイイものだったことを思い出した。独裁政権を打倒した人々が「自由」を手にするかどうかはまだ分からない。しかし、すくなくとも彼らを街頭というリアルな場に駆り立てたのは、「自由を我らに」というネットを通じたメッセージだったのだろう。

□ ニュージランド・クライストチャーチの地震で、日本人被災者がケータイで連絡を取り、救援隊に救出されたという。これも、通信手段の高度化が人命救済に役立ったケースだ。
もっとも、「山の中で道に迷ったから救援を頼む」とケータイで連絡して来たので救出に向かおうとしたら、「経費がかかるのか」と尋ねるので、「本人負担が原則」と答えたら「では、来ないでいい」といったふざけたケースがないわけではない。

□ 京都大学の入試でケータイとネットを利用したカンニング問題はどうか。「インターネット―自由を我らに―」というには余りにも愚かしい。

□ しかし、この問題では、非常に早い段階で該当者が特定された(逮捕に至ってしまった)ことの方が“問題”ではないか。ネットによって秩序が混乱することは、北アフリカや中東程の大混乱ではなくても、いや「大混乱」の未然の阻止のためにこそ、権力はネット・コントロールに並々ならぬ意欲を持っていると考えて不思議はない。恰好の材料として、入試事件は利用された…というのは深読みか?
大学も無防備すぎで、慌てて警察の思惑通りに刑事告発してしまった、違うかな?。

□ 通信は特定間で成立する。
地デジのIP再送信議論で、放送の匿名性と通信の特定性の議論を思い出した。

□ 革命的可能性と日常的有用性、そして個別具体的愚かしさの幅の中にインターネットの現実がある。

□ 前回触れた「論壇」(朝日新聞)で、東浩紀氏の「(クレイ・シャーキー氏の)情報の真偽よりコミュニケーションの有無のほうが重要だという洞察は、一連の出来事の本質を正確につかんでいる」という指摘に触れた。インターネットの現在は、「コミュニケーションとは何か」という基本命題の地平に漸く入ったのであろう。先はまだ長い。

                         ■

ここで、志村さん原稿を読む。
志村さんとの議論でしばしば思うのは、「ああ、そういう風に読まれたのか」ということだ。いうまでもなく、表現や伝達において大事なことは、「何を言いたかった(書く、創る、など)か、ではなくて、どう伝わってしまったか」である。だから、もちろん志村さんポストを面白く読んだのだが、もう少し深めたい論点はといえば、大筋ではこういうところだろうか。

例えば、「空腹はテクノロジーで拡張された感覚では満たされないし、空腹が満たされていれば、街頭に出る必要はない」というのは、志村さんのいう通りだ。そのことと、それに続く「情報の市場ダイナミズムは、その非対称性か、生活レベルの差が激しいほど大きく働く。それが、中東と日本との差だ」という文脈は、どういう関係なのだろう。先進地域のように、非対称性や生活レベルの差が限定的なところで先行的に情報市場が形成されているように思うのだが、どうなんだろう。志村さんの指摘を説得的に展開するには、ここに何か論理の飛躍ないしは省略があるように思うのだ。

そして、空腹が満たされることと、「街頭に出る/出ない」こととの関係こそ、いま私たちが考え抜くべきことではないかと思うのだ。

また、「テレビは、真実を伝えることと定義された中立という概念に縛られているがゆえ、真実は人の数だけ存在するという身体的な皮膚感覚から、どうしてもズレる。インターネットでマスメディアの情報のセカンドオピニオンが取れたら、『より多くの人が真実と思っているかに同意する仕組み』の『信用』は揺らぐ」と志村さんはいう。
でもね、インターネットの「セカンドオピニオン」も、「より多くの人が真実と思っているかに同意する仕組み」という力学の外にはいられないのではないだろうか。「ヤフーを筆頭とするメガサイトの圧倒的集客力と、グーグルによる検索結果に従うことにより、ネットは人々をより均一化したのである」(中川淳一郎/前掲書)とはこのことだ。つまり、情報の信用関係はメディアによって違うのではなく、契約社会(=近代国家=資本主義/民主主義)そのものの問題ではないだろうか。

志村さんはこうも言う。「『信用』という関係性は、主体的な存在同士で成立するのではないか。テレビと通貨は、その存在理由を背後の権力に拠っている」
Yes!&No!
試験問題の現代文解釈みたいになるが、ここの意味は「テレビ(と通貨)は権力によって存在理由が担保されているが故に、主体的な存在同士によって成立するべき信用関係の外に置かれる」と読める。
具体例として、「免許」が権力による存在理由の制度化だとすれば 確かにそうも言えそうだ。しかし、(前にも書いたが)免許という無線監理システムの下でも(あるいは、であればこそ)、監理からの脱出=権力との緊張関係こそが、メディアとしての(つまり物理媒体ではない)テレビのポテンシャルな「存在理由」である。だから、「免許の対象であることを理由として、テレビは主体的な存在同士で成立する信用関係の外に置かれる」のではない。「何が真実かではなく、より多くの人が真実だと思っている仕組みとしての信用」とどのような関係にあるかが問題なのだ。つまり、権力との緊張関係と同時に、視聴者(=市民・国民・生活者)との緊張関係をどう成り立たせるかである。これはテレビが現在どのように機能しているかという問題ではなく、構造の問題である。もちろん、テレビが「楽ちん」ばかり選べば、「国家安全装置」機能だけがテレビに期待されるという最悪の構図も想定できるだろう。だから、「そうならないための論理」が必要なのだ。
そして、インターネットもこの問い、つまり情報発信者が向き合うべき緊張関係とは何か、という問いを避けられないところに来てしまった。その一つの例が京大入試問題事件だ。それこそ、もう一つの「入れ子構造」(あやぶろ2/18.)の成長なのである。
ついでにいえば、どちらも「信用というフィクション」に向き合いながらも、この点は貨幣と違う。貨幣には権力(=国家)による担保が絶対的でなければならない(であるが故に、国家管理を超えかねない為替相場に国家は敏感である)…と思うのだが、どうだろう(資産を金(キン)で保有する=国家を信用しない話を志村さんは書いている)。

だから(「そうならないために」という意味で)、「権力から独立しても『信用』が成立するのか?それは誰に対してなのか?メディア論的に、テレビが問われている課題はこの点ではないだろうか」という志村さんの認識は全く正しい。「権力との緊張関係と視聴者との緊張関係の二重構造」を背負うことがテレビの「存在理由」であることを具体化にするために、この志村的問いを<内部の問い>、つまり“主体的”な問いとしない限り、メディアとしてのテレビは終焉するであろう。

志村さんは、「隙アリ」というところを突いてくる。だから、こちらも「そうか、そこはどう組立て直すか、あるいはその部分は全部捨ててしまうか」などと考える。良い刺戟だ。

                         ■

総務省で「電波オークションに関する懇談会」の第1回が開催された。放送業界は避けたい議論だろうし、放送がオークションの対象になるのが適当とは言い切れないが、無線通信技術の高度化という観点だけではなく、国家財源の拡充という点からも逃げられないテーマだろう。

                         ■

同じく総務省はラジオ局の複数経営を認める制度改正をするという。TBSラジオが以前から主張・要望していたことである。経営環境悪化という理由だけでなく、メディアの規制緩和の在り方の問題として、制度論を超えて深い議論をしておくべきだ。
ラジオで起こったことは、いずれテレビに波及する。「今のままが良い」と思うことは否定しないが、それがいつまで持つか?ネ、志村さん!

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいからNHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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