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20121/4

「21世紀の扉がフルオープンした」ことに向き合うための5つの質問―河尻ポストについてのお屠蘇気分の挨拶― 前川英樹

元日、今度は坂本龍一“ZERO LANDMINE”を聴いている。
「河尻さんポスト」について暮のうちに書きたかったことがあったけど、書けず。元旦、顔を洗っていたら「21世紀のための質問」という手を思いついた。年明けからなんだが、暮のメランコリーに代わって、ビーンボール気味の始球式でいこう。
河尻さんは書く。「21世紀の扉がようやくフルオープンした、という印象だ」と。
Yes!
その21世紀は[3.11]とともにやって来た。
20世紀と20世紀に至る近代を破壊することで、「21世の扉がフルオープン」したのだ。

河尻さんの挑発に乗ってみよう。
21世紀のフルオープンに向き合うための、とりあえずの5つの質問

質問1.前回のポストからのリフレイン。
(唯一つメモしておくとすれば)「世界史において初めて、機械的な複製は芸術作品を儀式への寄生的な依存から解き放った』というベンヤミンの一節が引用されているが、そのさき出てくる『芸術は儀式に基づくかわりに、必然的にある別の実践、すなわち政治に基づくことになる』をどう読むべきか。これは、20世紀から21世紀に向けられた問いではあるまいか。ベンヤミンはファシズムに向き合っていた。いま、私たちは何に向き合っているのか。

質問2.
「テレビは“回遊”を促すメディアとなるべきではないか。『村』を『ハブ』として世界へ拓く方向に。・・・ “遊民”としては、そこに興味がある。“テレビマン”も含むソーシャルパーソンのユニオンが必要かもしれないと思う」。<高齢遊民>としても同感だ。特に、非テレビ?から「テレビマンも含む」と踏み込んだところが良いね、このスタンスが大事だ。
そのうえで、「ユニオン」、「ソサイエティ」、「コミュニティー」、「ソーシャル」、「パブリック」、など幾つものキーワードが登場するが、私たちの言語である日本語の曖昧さ=非論理性の中で、どれほどのことが語れるのだろうか。
で、このことはポストにはないがメールにあった河尻節「もっと北斎な感じと言いますか、長屋の一間にこもり、ずーーーっと書いててたまにスッポン食いに行く、みたいなことに美を見出したほうがよいかもしれないと思いつつ」というところに繋がるのかどうか。多分繋がるはずで、そうだとすると日本人はどうやって世界に出ていくのかという、漱石の時代に戻りそうな質問になってしまう、これは。クールジャパンってなんだ?

質問3.
その延長に、21世紀は「遊民」による「国家の終焉の始まり」の時代であるか。
そうであるならば、情報はもちろん(ということは文化も)、例えば電力のような生活・産業エネルギーの先進国による寡占状態は修正されるべきではないか。つまり、国家という単位による構成・構造の限界あるいは不合理の解体。2011年に起こったチュニジアからウォール街へという人々の動きは、壮大な歴史的変化の、ほんの予兆ではないか。
人々は何故街頭出るのかという、その21世紀的理由は何か?

質問4.
「その作業は“君”に会いに行くことから始まるだろう。パブリックはそこから再構築されうる。ソサイエティではなくコミュニティからそれを問う視座がもっといる」。全くその通りだ。
ということは、21世紀は「リアルの復権」の始まりではないか。ないしは、デジタル/アナログの問い直しというべきか。デジタルとウェッブに限界が来るというのではない。さらなるデジタル・コミュニケーションの高度化・日常化の中で、リアル・身体の意味が重要になる。「だが、個人(一ジャーナリスト)の声を届けるツールとしては、ネットワーキングサービスのほうが適していると思う」としても、である。そこを抑えないと、河尻さんの内田樹評「そのスタンスでは、世界の半分しか把握しえないであろう」の裏返しが起こってしまうのではないか。リアル×ネット(ウェッブ)×マス=全部を見るのは難しい。

質問5.(4の続き)

「ネットワーキングの世界はいい意味でも悪い意味でも「類は友を呼ぶ」。呪いの言葉は呪いの言葉を吐く者に返ってきやすい。“つながり”とはそういうものだ」と河尻さんは言う。そう、だから「類」でない人間関係が大事であり、難しい。もちろん「この世界をポジティブな場にしようと頑張っている人もたくさんいる」のは確かだろう。ボランティアの若者たちの多くはそうだと思う。そうでなければ、ボランティアなどよけてしまうだろう。
それでも、「類」だけで共同性が構成されるのは、易きに流れてはいないか。これは、ネットワーキングにおける関係だけではない。いつだって、誰だって、分かりあえる(と思える)者同士で作られる場にいる方が楽だから。だが、「そうでない人がいる」のが世の中だ。そのことを承知しなければならない。デジタル・コミュニケーションは「そうでない人がいるのが世の中だ」ということを、どう担保するのか。
したがって、敢えて言ってしまえばこうなる。「分かり難い相手を排除したがる時代」が来てはいないか?21世紀の最初の危うさは、それではないだろうか。
昨年末に青山通りで「原発反対」デモに出会ったときに、まことに尤もな主張でありながら、どこかに違和感を覚えたのは、「類友世界」が構成されていたからかもしれない。デジタル・コミュニケーションの原理は0/1だが、言語による会話はそうではない。相手との距離、言語、表情、雰囲気、相手との認識あるいは誤解の同時性、などなど。そのトレーニングはネットワーク・コミュニケーションにとって必須、つまり基本・基礎である。

ネットワークを否定しているのでも、アンチ・デジタルを唱えているのでもない。そのくらいのことは「あやブロ」の議論としては了解していただけるだろう。
21世紀の扉のフルオープンとは、どんな希望とどんな災厄がこの世に登場するかという、パンドラ箱が開けられたような、スリリングな時代を迎えるということでもある。既に、9.11も3.11も私たちは経験している。「21世紀は、19世紀の延長としての20世紀とは違う時代」といったのは誰だっただろうか。

新年早々ちょっと疲れた挨拶をしてしまった。読む方はもっと疲れただろう。申し訳ない。
「あやブロ」の皆さん、今年も元気に綾取りしましょう。
ブログあや取りとリアルあや取りで。

よろしくお願いします。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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