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20114/13

“せんぱい日記”⑪ [余震が続いている。原発も先が見えない。東京で不安なのだから、現地ではどれほどだろう] 前川英樹

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4/4(月)
NHK・BSで小津安二郎の「東京物語」を観る。一点一画疎かにしないとはこういう作品をいうのだろう。小津は戦争を描かないといわれるが、そんなことはない。この映画では戦争と戦後が見事に描きこまれている。「山田洋次が選ぶ100本の映画」では「家族」というカテゴリーだそうだが、そうだろうか。

4/7(火)
朝日新聞「オピニオン」は“歴史のいま”というタイトルで 川北稔さん(阪大名誉教授・歴史家)のインタビュー。
「近代とは、経済成長を無前提にした時代」であり、「この成長を裏打ちして来たのが、地理的な拡大と科学技術の発展」なのだが、地理的拡大には限度がある。「それを突破したのが科学技術」による農業の生産性の向上、エネルギー問題の解決、自然の脅威からの防衛だったのだか、「今回、それがいっぺんに揺らいでしまいました」と、川喜多さんは語る。
「科学技術でも抑え込めない災害があること、そして科学技術が巨大な災害を生んでしまうことが、あらわになって」しまったことにより、「科学技術によって支えられてきた近代社会、そして成長信仰そのものに、大きな影響を与える」であろうという。そして「自然災害が政治・経済・社会を不安定化させることは歴史を振り返れば何度もありました」と指摘した上で、「近代世界を一つのシステムとして見る考え方」に立てば、16世紀の西欧諸国の消長や興亡の中で先頭を切ったのがポルトガルとスペインであり、やがてオランダ、イギリスがそれらを抜き、そしてアメリカに重心が移って行ったと見ることができる。
いま、東アジアの世紀といわれていて、その先頭に立っていたのは日本だったが、ではこれから「日本は東洋のポルトガルになるのか」。「大災害は、(ポルトガルがそうであつたように)すでに起きていた流れ、特に後退ぎみの傾向を早めてしまう」ので、その結果、ポルトガルがそのように見えるのだが、ある安定の状態がもたらされると考えることもできる。「それを『安定』と受け止めるためには、我々の価値観、メンタルな部分が変わる必要」があって、『「ずっとトップを走らないと不安」ということでは、『被災後』をうまくやっていくことはできないでしょう」と結んでいる。
示唆的だ。概ね共感できる。
特に、近代とは何だったのかということを、この大災害が考えさせるということは、その通りだと思う。そう思いつつ、多分世界史の中でそれなりの位置取りを、日本はするだろうとも思う。

NHK「らいじんぐ産」をみる。エレベーター開発の話だが、「技術と人間の接点」という焦点の当て方が説得的。「技術と人間の接点」ということを原発は忘れていたのではないか、そして「情報技術」においては、それはどうなっているのだろうか。

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4/8(水)
「地デジ完全移行」について、東北三県は延期を検討という記事。この状況ではそれも止むを得ないか。
今日の朝日新聞の「オピニオン」は、「異議あり」「3.11 官僚よ、前に出よ」というタイトルで、住友商事会長の岡素之さんが語っている。郵政省時代から「官僚」と20年以上付き合った感想をいえば、ダメな役人も優れた役人もいて、優れた役人はやっぱり必要だということだ。そして、巨大なだけに不正も起こりやすいが、行政システムというのは機能していないとその能力やレベルも低下する。だから、それをキチンと機能させることは重要な政治責任の一つだということだ。

4/9(木)
災害報道について、被災地のローカルメディア、テレビ・ラジオ・新聞、などの様子がだんだん伝わってくる。ローカル・ジャーナリズムは悪戦苦闘&善戦健闘。自分が被災者であり、局や社が被害を受けている中で、やはり地元の人々と向き合えるのは地場メディアの記者たちだ。彼らの仕事は記録されるべきだ。
3月30日の「あやブロ」で「東北にいるのに、東北の声が聞こえない。その悲鳴が、叫び声が届いてこない。東京のスタジオから発信される言葉のおおかたが、私には妙にそらぞらしく響いてしまう。」という歌人の大口さんの言葉に触れた。そして「このズレ、メディアの言語の虚しさをどうすれば良いのか。『そらぞらしくなく』伝える術はあるのかと言えば、多分ないだろう。それでも“何か”をメディアが伝えるとすれば、それは何か。そして、メディアはその“何か”を誰に向かって伝えているのか。その虚しさの前で立ち尽くす、そのナイーブさをメディアは持っているか。・・・(略)・・・メディアで仕事をするとは何かという葛藤と、そして挙句に、その場に立ち尽くす勇気があるか、と自分に問うことが、災害ジャーナリズムの原点ではないだろうか。」と書いた。ローカルメディアの記者・ディレクターたちがそのように仕事をすることで、大口さんの思いに向き合い、そしてそれがローカルジャーナリズムの原点を築いていくことを期待する。

この「日記」の原稿を書き上げた後に、4月13日(水)の朝日新聞朝刊「3.11記者有論」を読んだ。とても優れた記事だと思った。武田耕太記者の文章で、書き出しはこうだ。
「圧倒的な喪失感を前にしたとき、人は言葉も一緒に失うものだ、と初めて知った。10年以上新聞記者をしていながら気付かなかった。そのことをいま猛烈に反省している」。そして、震災現場での経験と思いを綴り、最後はこう結ばれる。「津波は一瞬にして人々の命や暮らしを奪ったが、これからはじりじりと感情を奪い取っていく。いま、そんな恐怖を感じている。時間がたてば日常は戻り、記憶は薄れる。それでも被災地は『3.11後』を生き抜かなければならない。被災地に寄り添い、失われた言葉を想像し続ける必要がある。それは、この喪失感を表現する言葉を見つけられずにいる、私自身の問題でもある」。
読み返して、とても心に残った。ここに、災害に向きった時に「立ち尽くすナイーブさと勇気」という、ジャーナリストの精神がある。テレビ記者もこのように感じ、思っている者もいるだろう。それを、何処でどのように表現するか、これからが<仕事>だ。

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4/11(月)
我が家の近くの公園の桜が満開。なかなかの桜並木で毎年楽しんでいるが、今年はやはりどこか切ない。

「春三月 縊り残され 花に舞う」

「赤旗事件」で収監されていた大杉栄が出獄したときに、その間に大逆事件で処刑された幸徳秋水を思って詠んだ句。凄惨な花見だ。
今年は大逆事件から百年。大逆事件は、日本近代の一つの屈折点だろう。
そして、その大杉栄は関東大震災の混乱の中で虐殺される。

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TBSメディア総研 “せんぱい”前川英樹

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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