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20117/22

[2011.7.24. アナログ終了の日]―“地デジ”を巡り、議論されたこと、議論されなかったこと(I)- 前川英樹

註1:この文章は、7月20日に書いている。
註2:以下に登場する、郵政省/総務省及び民放連関係の審議・検討機関に、筆者は委員(あるいは専門委員・作業委員)として参加して来た。

7月24日が来る。
地上放送のデジタル移行完了の日だ。東日本大震災の影響で東北三県は来年三月まで延期になるが、その他の地域はこの日を以ってアナログ放送は終了する。その日、あるいはその日以後も相応の混乱はあるだろうが、それでも「移行」は実施される。それにしても、世帯普及率99%超、受信端末1億台のメディアの方式変換は、やはり大事業だ・・・と、あらためてそう思う。

「民放は何故“地デジ”に踏み切ったのか」という質問を、最近改めて聞くようになった。これも、7.24.が迫ってきたせいだろう。放送業界人生の最後の10余年を“地デジ”に関わった者として、往時茫々の感がないわけではないが、そのあたりのことを記録しておくことも大事だろう。
以下は、7.24.を前にして思い浮かんだ「わたしの“地デジ”センチメンタル・ジャーニー」である。

1.「地デジ化」政策の経緯
放送伝送のデジタル化は、1990年のアメリカGI(ゼネラル・インストルメント)社のデジサイファー方式のデモンストレーションが初お目見えだった。当時の日本の次世代放送のテーマは、BSによるハイビジョン放送であり、ミューズ方式というアナログ圧縮技術が本命だった。NHKは自ら開発したこの方式を国際標準にすることを目標にし、郵政省もこれを国内規格として採用するなど意欲的だった。民放はBSへの早期参入(NHK独り勝ち構造の阻止)を戦略課題としていたので、ミューズ支持の立場であり、メーカーはミューズの開発投資を回収するために、その実用化を経営課題としていた。こうした状況で、郵政省は1992年に次期放送衛星のあり方に関して、電波監理審議会に諮問したが、その答申は(当然のこととして)ミューズ方式の採用を前提にしたものであった(93年)。
ところが、94年郵政省放送行政局長が「世界の潮流はデジタル化にあり、ミューズはこれに反する」と発言し、電監審答申を見なおことになり、放送行政局長の私的諮問機関として「マルチメディア時代の放送のあり方に関する懇談会」(マルチ懇)が設置された。この局長発言は、確かに先見性という点では「その通り」といえるものの、電監審への諮問-答申のまさに当事者である局長(人事異動よる交替したとはいえ)が、その見直しを求めるというのは尋常ではない。局長は柘植名は、政党関係の場での発言であり、新聞などの取り上げ方も計算されていたと思われるので、その意味ではり、したたかで優れた“手”ともいえる。また、その作業を私的諮問機関によるというのは、電監審など公的な場の議論以前に行政としての方向を実質的に固めてしまうためにしばしば取られる方法とはいえ、まことに<55年型>の日本の政策立案の仕組みが如実に示されたケースといえるだろう。
「マルチ懇」では、①次期放送衛星=BS-4は、1号機はアナログ、2号機はデジタルという2段階論で折衷し、②地上テレビ放送のデジタル化については2000年代前半に導入という方向を示している。この議論には、もちろん放送事業者も参加している。この時郵政省は、局長の発言を梃子にしてBSだけではなく、“地デジ”を政策課題とすることに成功したのだった。
その後、多少の紆余曲折はあったものの、98年には「地上デジタル放送懇談会」(デジ懇・・・これも、局長の私的諮問機関)が①全面移行(部分導入ではない) ②既存事業者先行、③スケジュールは、2003年三大都市圏、2006年その他地域、2010年アナログ終了、④送信は現行の放送対象地域の100%カバー、⑤受信機の85%普及が移行の目安 、という取りまとめを行った。⑤を除けば、現在の「地デジ化」の骨子が示されている。ここに関係者合意が成立し、行政と事業者はデジタル・チャンネルプランの策定に入ったのだった。

2.民放連の「地デジ不可避宣言」
だが、ギョーカイの空気は複雑だった。第一に、民放は「メディア事業最大の成功モデルの方式を何故変更しなければならないのか」という意識が強かった。「どうしてもデジタル化」というのなら、それは<国策>なのだから、国の責任でやるべきだというわけだ。NHKはデジタル化が視聴者の理解が得られるかどうか疑問だとし、それが受信料体制にマイナスになることを恐れていた。新しい放送サービスについて「先導的役割」を制度上も求められていても、地デジはそうもいかない、ということだ。加えて、検討されたデジタル・チャンネルプランは、現在視聴者が見ているアナログ・グチャンネルの変更世帯数が1千万と試算され、これについて民放連会長は「検討に値しない」という見解を表明していた。つまり、地デジは作業を開始したとたんに八方ふさがりの状態に入ってしまったのだった。
ここで、登場するのが民放連の「不可避宣言」である。民放連では、デジタル化を検討する組織として「地上デジタル放送特別委員会(デジ特)」(委員長 北川信テレビ新潟放送網社長:当時)を設置していたが、その下部機関である「地上デジタルテレビ放送専門部会(テレ専)」(部会長・前川/TBS取締役:当時)は、「地上波のデジタル化は不可避である」という考えを取りまとめて「デジ特」に提案、北川委員長はこれを「デジ特見解」として公表することについて、民放連の了解を取り付けたのだった。その概要は以下のとおりである。①基本認識=「デジタル化は不可避」である、②既存事業者を優先すべきである、③(現行アナログ放送と同じ)6MHzが確保されるべきである、④デジタル化開始時期の最終判断は放送事業者がおこなう、⑤(特に、ローカル局については)デジタル化投資が経営の圧迫要因になるため、「公的支援」が必要である、⑥他のメディアのデジタル化を視野に入れた総合的施策が必要である、というものだった。②から⑤は、地上民放の利害が強く反映されているが、こうした条件抜きには、「地デジは不可避=地デジを選択すべき」という見解は成立しなかったのである。
では、どうして「不可避宣言」が必要だったのか。
その頃は、例え話しとして「冷水塊の魚」というのがあった。つまり、冷たい水の塊に閉じ込められた魚は、周辺の水温が上がって冷水塊が溶けると死んでしまう、情報の世界がデジタルに向かいつつある時に、放送だけがアナログ世界の中で生き残ろうとするのは無理なのだ、というわけだ。但し、後で調べると冷水塊という用語は、少し違う意味であることが分かったが、ともかく当時は、このままでは地上波に未来はない、と言い続けたのだった。いまなら、「ガラパゴス化だ」といえばすんだであろう。いずれにせよ、あるいはどんなにギョーカイ的都合という条件が付くにせよ、この時「地上放送のデジタル化は不可避である」と言い切ること、つまり逃げ口を塞いでしまうことが絶対的に必要だったのだ。この頃「ルビコンを渡る」という言葉が何度も繰り返されたことを忘れない。ごくごく内輪のメンバーで、暫くの間「ルビコン」という名前の飲み会が毎月続いたのだった。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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