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201211/16

11・16【八鹿(ようか)紀行―山田風太郎さんの郷里へ行って来た―】前川英樹

「時代は、“読む”という行為を、彼らが戦時下で本を読んだようなものとして、再び求めるのかもしれない。知的であるということは、そういう行為の連続なのだろう。」
そして、
「そのようにしてメディアを政治と技術の幅から解放すること、自らそうであろうと決意すること、それを持続すること、それがメディアの自立ということなのだ。それが、文化としてのメディアということなのだ。」

 

11/9(金)
明日から3日間、山田風太郎さんの生地である兵庫県の八鹿(ヨウカ)に行く。八鹿は日本海に近い兵庫県北部だ。 山田風太郎さんはぼくの敬愛する作家で、70年代というぼくにとって空白・空虚の時代に自分の喪失感を仮託して読み耽った作家だった。想像力で人は生きられるということを教えてもらった。それだけでなく、風太郎さんの日記は想像力を支えるのは観察力だとも語っている。

その八鹿に山田風太郎さんの記念館がある。その記念館が主催する「風太郎祭」というイベントで、30年前にぼくが制作・演出した山田風太郎原作のドラマ「娘たちの復讐―日本国憲法殺人事件―」を上映し懇談するという企画が実現したのだ。ちょっとワクワクしている。

プログラム表紙

素朴な手作り感が良い。ビデオだけどカットの絵がフィルムになっているのもなんとなく微笑ましい。ビデオじゃ様にならない。1週間前の企画展示『写真で見る関宮と風太郎』のイメージも兼ねているのだろう。 ここに至るいきさつは、少し風変りなタイトルの事も含めて、以前書いた
風太郎記念館ホームページの掲示板にも紹介した。
この数日、DVDチェックや原作の読みなおし、「戦中派**日記」シリーズの通読など。講演用メモの作成。久しぶりに、平岡正明の「風太郎左派」などの評論のページも繰っている。風太郎論では平岡が良い。同世代のせいでそう思うのだろうか。あの過激さは棄て難い。

11/10(土)
京都から山陰線で城崎行きの特急に乗る。

京都駅 山陰線ホーム

 

山陰線は前に乗った事があったっけ…?あったとすれば、鳥取-米子間だけど、そんな近いところを汽車移動しただろうか、というほど縁がなかった。 ・・・アツ、思い出した。家族で京都旅行をしたときに、保津川下りをしようと亀岡まで乗ったのは山陰線だ。だけど、それって山陰線に乗ったといえるかなァ・・・。 で、城崎といえば志賀直哉だけど、読んでない・・・ムツ・・・。
15時半頃八鹿着。 山田風太郎夫人一行と合流。
今夜の宿泊は県の公共施設「長寿の郷」。 庭の紅葉が鮮やか。関東より半月ほど季節が早い感じだ。 庭の手前の方が荒れているのは、猪が冬に備えてミミズを食べた跡だという。

 

11/11(日)
朝食の時に思った。ご飯がおいしい。聞けば、このあたりの蛇紋岩という地質が米にあっているという。鰈の干物も納得。
昼前に山田風太郎記念館に着く。

隣は同行したTBSの先輩村上さん。 村上さんは、「娘たちの復讐」の脚本家佐々木守さんが、学生時代にTBSラジオ(当時は、ラジオ東京)でアルバイトをしていた時のディレクターだった。
ドラマ「娘たちの復讐―日本国憲法殺人事件―」は1982年の放送だった。風太郎さんの短編シリーズ「夜よりほかに聴くものもなし」の二つの話を原作にした。 あれから随分時間が経った。30年だ。脚本の佐々木守さんも、主演のスーちゃん(田中好子)、三浦洋一さんもみんな故人になってしまった。
そして風太郎さんも。
この企画のために、前もってDVDを自宅で観てみたのだが、「下手な演出!」と嫌になるくらいだった。言い訳も考えていた。だが、今日見てみるとそうでもない。善戦健闘している。
スーちゃんは、キャンディーズ解散後、最初のドラマ出演だった。彼女も緊張しただろうけど、マネージャーは凄く緊張していた。そして、こちらもチョッと緊張した。今見れば、彼女はとても感性の良い、素直な表現をしている。そんなことも思いだした。
上映後の質疑も、思ったより色々な感想・質問があった。概ね好意的。 この企画の実現もそうだが、この地で風太郎記念館を支えている地元の皆さんに敬意を表したい。ドラマの台本を読んだ風太郎さんが感想を書いて送ってくれた葉書は、今回記念館に寄贈することにした。ほかに何かお手伝いできることはないだろうか。

記念館の近くに風太郎さんの生家がある。200年前に建てられたものだという。

山田家の梲(うだつ)

生家は医者だった。山田医院玄関

会場でも話したことだが、今年のノーベル文学賞の莫言の壮大なフィクションにも感嘆したが、風太郎さんのイマジネーションはそれを超えるものがある。日本における知のあり方を、風太郎さんを通して考えてみたら、きっと私たちが今の日本から読み取れないものが見えてくるだろう。 そういう風に風太郎モノを読み直してみたい。

二階の窓、風太郎少年の部屋だった

氷雨模様の生憎の天気だった。 間もなく来る冬になれば湿雪が降り積もり、人々は長い辛い季節を迎えるのだろうということが、感じ取れた。そして、人々の優しさがそれをカバーするのだろう。 そうやって人は生きてきたのだ、どの村や町でも。
夕刻、八鹿の近くで「夢千代日記」(NHKドラマ)の舞台になった湯村温泉に移動。
旅館は「井づつや」さん。

こういう高級温泉旅館というのは久しぶりだ。佐々木守さんの郷里、山中温泉「よしの家 依緑園」以来だろうか。これまた30年以上前だ。
湯村温泉の湯量はとても豊かだ。 夕食の松葉ガニは解禁直後で絶品。それよりも、焼き物一品を選べるというので鯛のかま焼きを頼んだのだが、鯛好きのぼくもこんなにおいしい鯛(日本海産)は初めてだった。感動ものだった。 焼き物選択の時に、焼きガニにも魅かれたという話をしたら、山田夫人が「どうぞ」と言ってご自分のものを取り分けてくださった。遠慮なくご相伴にあずかる。蟹は焼くことで甘味が増して美味。なんとも贅沢な晩餐だった。地酒もおいしかった。やはり米が良いのだ。
カメラを持たずに夕食の席に着いてしまったので、「井づつや」さんのパンフレットより。

 

11/12(月)
帰路は、こういう時でないと乗る機会がないであろう播但線で姫路に出ることにした。播は播州、但は但馬。八鹿の一つ隣の駅、和田山から姫路まで。

和田山駅

播但線列車

ローカル線というのは、初めて乗る路線でもどことなく懐かしい感じがする。 播但線の姫路寄りの半分は電化されているが残りの北半分はジーゼルで、ところどころに「播但線の全線電化を!」という看板が立っていた。

寺前駅で乗り換え ここから電化されている

新幹線乗り換えも順調で、予定より一列車早い列車に乗れた。 夕方帰宅。東京は暖かった。

11/13(火)
風太郎記念館の方々に以下のメールを送った。 「“風太郎祭”に参加する機会を頂戴しありがとうございました。 大変楽しい3日間でした。 時間を30年ほど戻して、制作現場の体験をお話しできたことも(もうこういうことは多分ないだろうということも含め)良かったですし、風太郎さんゆかりの場所をお訪ねすることが出来たのも、また八鹿、湯村などどことなく懐かしい日本の原風景のような景色に出会えたのも心和むものがありました。どこに、というよりああいう情景をまた見たい、という気持ちになりました。・・・」など。 そう・・・八鹿周辺の集落、田畑、川や旧街道の風景は、どこか懐かしい暖かさがあった。

早速、記念館の有本さんから返信が来た。 「参加された方から、ドラマもよかったし前川さんの話もとてもよかったと感想を聞かされました。 主催者としては参加者からほめられるほど嬉しいことはありません。色々とこちらの不手際もあり、ヒヤリとした場面もありましたが、結果は大成功であったと言ってよいでしょう。」 また、記念館事務局の西山さんも、「来てくださった皆様に、おもしろかった、よかった、面白い話が聞けた、きてよかったと、口々に言っていただきました。お話されている雰囲気が、客席に柔らかい感じだったのか、質問なども活発で、みなさんによろこんでいただけましした。」と書いてくれた。ホッとしている。

会場入り口・記念館集会場

山田風太郎はぼくが最も敬愛する作家だと書いたが、もう一人敬愛する作家は堀田善衛だ。 この二人には、共通点はほとんどないように見える。 しかし、思えば堀田善衛は富山の北前船の船主の家に生れたというから、どちらも日本海側の文化圏の人だ。 そして、それから二人とも戦時下に本を深く読み続けたひとだ。 山田風太郎の読書歴は日記に詳しい。堀田善衛は「方丈記」や藤原定家の「明月記」を読み抜くことで、あの時代を生きる根拠を見つけようとしていた。それが後の「方丈記私記」、「定家明月記私抄」(正・続)に結晶する。 「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ。」と定家が書き残したことに、この<戦なんて知ったことか>という断言に、堀田善衛は衝撃を受ける。

山田風太郎と堀田善衛は同じ時代、大空襲下の東京で生きていた。彼らのほんの少しの年齢差(風太郎さんが四歳下)と、生育環境も含めて文化的なあるいは知への道筋の相違が、全く異なる文学の地平に夫々を導いたのだろう。誰にでもそのような違いはあるにしても、その違いに興味がある。

書架にある山田風太郎と堀田善衛の本を再読するだけで、何だか豊かな時間が過ごせそうな気がする。時代は「読む」という行為を、彼らが戦時下で本を読んだようなものとして、再び求めるのかもしれない。だが、知的であるということは、そういう行為の連続なのだろう。 そうであれ、老後の過ごし方として悪くない、と思う・・・もう老後だけどね。

ところで、テレビはそのような知の行為に加担できるかどうか。 そして、ソーシャルメディアもまた。 自らそのような存在になりえないとしても、それらを視野に入れるだけの、あるいは対象化出来るだけの客観性を持つことが、メディアがメディアであるための条件なのである。そのようにしてメディアを政治と技術の幅から解放すること、自らそうであろうと決意すること、それを持続すること、それがメディアの自立ということなのだ。それが、文化としてのメディアということなのだ。 些か牽強付会な言い様だが、やっぱりそう思う。

山田風太郎という、どのようにでも読めてしまう巨大な知と想像力の塊に向き合って、強いて今回の紀行を「あやとりブログ」“らしく”締めくくるには、こんな風にいうしかない。

但馬の冬が近い

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール 1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸 隠。

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