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201211/17

11・17「メディア=現実×編集×表現」と「デジタル+ソーシャル」志村一隆

 

 行為の継続として実現されるもの

前川センパイの論文「<3.11>はメディアの現在をCTスキャン[断層撮影]した – マスとソーシャルを考える – 」(ネット・モバイル時代の放送- その可能性と将来像- 日本民間放送連盟・研究所[編]、学土社に収められている)を読んだ。
センパイは繰り返し問い続ける「なぜマスメディアは、情報を切り取ったり、切り捨てたりすることが<できる>のだろうか(p216)」と。
多くの人はその答えに「公共性」を持ち出すだろう。しかし、センパイは「公共性とは行為として実現されるもの」と言う。つまり、誰かに与えられるものではないのだ。
「なぜメディアは情報を切り取れるのか?」という問いは、「(行為)の継続によって<中略>自律的=自立的な問題」なのである。
そのとき初めて、社会=メディア(企業)の問題は、企業=個人の関係性に行き着く。「一人称目線」の信頼性は、「肝要なのは、『仕事だから』ではなく、『なぜ、その仕事をしているのか』なのである」を考え抜く以外生まれないのだろう。
<個人>は情報を切り取れるが、<メディア>はなぜそれが可能なのか?その答えは問い掛けを考え抜くところにしかないのだろう。そのためには、<個人>が切り取ることが可能になった歴史を学ぶ必要もある。

震災時、深夜のニューヨークで見たCNN画面

1年前の東北の記録

センパイ論文には、東北に行ったときのあやとり原稿が掲載されている。その日付を見て「あっ」と思った。いまからちょうど1年前だったのである。今日は11月11日。ポッキーの日であり、あやぶろ東北巡航の日だった。とにかく寒かった。1泊した北上の街は雨で暗かった。
そこで、あやぶろ2011年11月分を改めて読んでみた。(11月分アーカイブには東北について4本が収められている。コチラ
氏家編集長は、こう書く「沖合の防波堤と二重の巨大防潮堤でさえ無力だった500年に一度の大津波、こんなものがまた来たら逃げるだけさ。そんな諦めを思い知らされたような田老の視察だった。」
前川センパイの言葉「『心が物理的に壊されてしまった』のではないかと思ったが、たとえそうであっても、少し日が経てば、日常の営みが始まっている。人はそのようにしか生きられない…らしい。そのことにまた、コトバを失う。」
田老の防潮堤の上に立ち、破壊され何も無い光景に呆然としたのだ。
木原さんは、JNN三陸支局の龍崎支局長の日記や暮らしの手帖元編集長の仕事を描いた「花森安治の青春」という本からインスパイアされ、「戦後しばらくは標語の無い時代だったのではないか。それぞれがそれぞれのやり方で真摯に生きようとしたから復興できたのではないか。」書いた。視線が未来を向いている。
そして、私は「我々が見た何も無さは、8ヶ月間のヒトとモノの往来が積み重なった結果だ。」書いた。この文は、防潮堤に立ったときの感情をそのまま書いたのではなく、東京に戻ったあと、田老について調べたあとの感想だ。

 

震災翌日マンハッタンの電器屋に行き、GoogleTVでニュースを検索した

 

1年8ケ月前の震災・原発の記録

久しぶりに過去原稿を読んだので、ついでに2011年3月のポストを読み返してみた。震災直後の各人が感じたことが記録されている。(アーカイブはコチラ)
前川センパイの論文にも掲載されているが、自分はニューヨークに居た。翌日のフワフワした感じを今でも覚えている。
センパイは3月16日ポスト「今日(15日)あたりから、ワイドショーの扱いが情緒的傾向になり始めたような感じがする。」と書いている。
河尻さんのポストは、メディアの雰囲気が変わっていく様子が記録されている。3月19日ポストを見ると、前川さんが記録した15日について「Pray for Japan」から「Play for Japan」へ。すごいバイタリティというか、ちょっとヤケクソ気味というか。」と書かれている。この日から世間の雰囲気が少し変わったのだろう。
その1週間後、私は「正しさは人の数だけあるし、純化された正しさを容認する空気ほど危険なものはない。」書いた
記録は読み返して意味がある。これからも読み返そう。

 

 

震災翌日の昼どき、マンハッタンのバーンズ&ノーブルの喫茶店。何事もない日曜

 

なぜその仕事をしているのか?と表現

今回改めて読み返してみて、東北後の原稿は「無力感」が溢れているが、震災直後の原稿には主体的な言葉が綴られ、活力に満ちていることに気付いた。そこには「震災」を東京で体感したリアル感があった。ニューヨークからのレポートも(たとえ、揺れを体験していなくても)リアルといえる。
東北での経験は、震災8ヶ月後に田老の防潮堤に立ったことが自分にとってのリアルであるが、8ヶ月前にその地で起こったことは想像するしかない。
防潮堤に立った感情をストレートに伝えるのか?別な方法を見いだすのか?「なぜその仕事をしているのか?」という疑問に自分がどう答えるかによって、「表現」が変わってくるだろう。そして、それは「なぜメディアは情報を切り取れるのか?」という問いにどこまで真摯になれるかの分岐点となろう。

 

 

東京に戻り、スーパーに買い物に行ったが棚は空っぽだった

スキャンしたのは誰か?

前川センパイの論文タイトル「<3.11>はメディアをCTスキャンした」を見たとき、主語と目的語が逆?「『メディア』が<3.11>を『CTスキャンした』」ではないか?と思った。
しかし、今回あやぶろを読み返して、センパイの意味するところは、「大震災は、我々個人に『私はそのとき何をしていたのか?』」という共通の意識を抱かせ続ける」、それを『<3.11>が○○をCTスキャンした』と言っているのではないかと気付いた。

では何故○○の部分に「我々」や「社会」でなく「メディア」という言葉が入るのだろう。それは、刻々と変化するリアルな<3.11>は、マスメディアやソーシャルメディアに触れた(情報の送り手、受け手として)人の記録として残される。つまり、個人がそれぞれの場所、立場で感じたリアルな(メディアに残された)記録は<3.11>というラベル(タグ)でスキャンされるという意味ではないだろうか。

 

Japan in a Dayという手法

現在劇場公開中の「Japan in a Day」は、2012年3月11日に撮影された映像を広く集め、それを編集した作品である。プロデューサーはフジテレビの早川敬之氏。製作総指揮のリドリー・スコットは、昨年同じ手法で、「Life in a Day」を発表している。(全編YouTubeで見られる。コチラ)
「○○ in a Day」には、職業としてのレンズ、視点、被写体を見つめる視線はない。世界中の人が自分で楽しいと思ったり、伝えたいと思った映像の集合だ。つまり、防潮堤に立ったときに想像した8ヶ月前の出来事ではなく、8ヶ月後の防潮堤に立った感覚そのままのリアル感である。そして、<3.11>がスキャンしたと同じく、「Japan in a Day」は<2012.3.11>が我々をスキャンしているのだ。
<○○○○.○○.○○>は情報を切り取っていると思っている我々をスキャンしてしまう。我々の切り取り方を独善的であると笑うかのように。
「○○ in a Day」は時間という普遍性を持ったタグで「一人称目線」の情報を編集してみせる。作品を見ると、個々の「一人称目線」を集合させると公共の空間になるということを自然に意識させてくれる。つまり、社会は国家が作るものではなく、個人の集合体が社会であることを改めて認識させてくれる。

 

現実×編集×表現 

 

しかし、考えてみれば「Japan in a Day」と2012年3月12日付けの新聞とは何が違うのだろうか?情報量(Japan in a Dayには15,000人が投稿した)?編集の視点?デザイン?決定的な違いは、オリジナル情報に職業として切り取ったものが無い点であろう。
「Japan in a Day」のウェブページには、集まった18,000本の映像を90分に編集するのに、まずおおまかにタグ付けし、それを細分化していったという手法が述べられている。
それは、ソーシャルが一人称視線のマスに取って代わるということ意味するものではないが、「ソーシャル+デジタル」がどの段階まで可能になっているかは、冷静に把握しておく必要があるだろう。
メディア=現実(事件など)×編集(切り捨て、切り取り)×表現(紙、映像など支持体、文、映像など手法、紙面、章構成などインタフェース・デザイン)と表されるならば、マスとソーシャルの関係性のポイントは、編集と表現手法に「一人称の視線」をどう組み込むかという段階に来ている。(参照:志村ポスト9/6無数のスマホに記録される記録:「時間」と「空間」のメディア論
つまり、ソーシャルで集められる圧倒的な情報量を、デジタル技術で編集、表現し提示するアプリは世間にたくさんでている。つまり、編集・表現の自動化だ。「ソーシャル+デジタル」、または「ソーシャル+デジタル+少し人の手」で成立するメディアとマスメディアの関係も考えるべきテーマだろう。(プロフェッショナルなエディターズシップについては、稲井さんの9/6「江戸から考える「メディア」の条件」も参考になる。)
センパイが問い続ける「職業」=「システム」としてのメディアが成立し続けるには、マスとソーシャルという関係性だけでなく、「一人称の視線」とデジタル技術(機械化)の関係性も重要な視点である。

 

志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取 締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka

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