5・25【表現とお金-この世知辛い世の中-】志村一隆
日本政府が南方で発行した5ドル札
「爆笑王」と「ウマい落語家」
先日読んだ立川談志師匠の「現代落語論」(三一書房、1965年初版)がとても面白かった。ちょうど高度経済成長期、テレビやマスコミが成長した時代に、芸人としてどう食っていくか?について綴られている。談志師匠は、その時代、人気の基準が笑いの「量」だけになってしまったと嘆く。「ウケる」という言葉の持つ意味から「ウマい」が外れ、「笑い」だけが重視されるという。
高度経済成長期は、大量生産の時代と習った。工業製品の話ばかりを教わったが、笑いの「質」から「量」へという談志師匠の話は、当時の様子を違う面から教えてくれた。
金返せ!
この「現代落語論」から6年後に書かれた村木良彦さんの「ぼくのテレビジョン」(田畑書店、1971年初版、前川センパイから借りた)には、ライブの内容に不満な会場から「『オレタチハ金ヲ払ッテイルンダゾ』という声が上がり、観客から支持された」という箇所がある。村木氏はこの状況を「表現者は、自分を売っている行為を<表現>というあいまいさにもたれかかり、買った側も買ったという主体的行動を忘れてしまった」と指摘する。
ここでは、「お金」が表現者と受け手の接点としてドライに意識され、お金を媒介にした等価交換、消費への自由な意思決定とその責任といった視点が感じられる。
談志師匠の「現代落語論」は、同じ金額の木戸銭を払ったお客でも、演者との間にリスペクトが無いお客とは、芸は成り立たないと言っている。いっぽう、お客のほうは、自分が払った金の量と笑う量を均衡させたがっている。
村木さんの「ぼくのテレビジョン」ではお金を払ったお客は全員平等であるが、自分から見に来たんだから文句を言うなと言っている。時代の変化か視点の違いか、お金を払っても主体性を持つべきである消費者的な視点が入り込んでいる。
金払ったら、何を言ってもいいのか?
つい先日、今度は言われた側が、言い返した話を聞いた。中日ドラゴンズの高木監督や選手がファンのヤジに「金を払ったら、何を言ってもいいのか?」と言い返したという。ここでは「一生懸命やっているのに、なんでそんなこと言えるの?」というモラルが論点だ。お金の話はどこかに飛んでいる。
もうひとつ、プロ野球で面白い試みが、ゴールデンウィークにやっていた横浜DeNAベイスターズの返金可能なチケット企画である。勝ちゲームは半額、負けは全額が返金可能になる。5試合やって、金額ベースでの返金率は47%だったという。勝ちゲームでも返金を求める人が半数以上いたらしい。
「勝ち負けだけでなく、いいプレイがあれば満足する」「試合だけじゃなく球場自体をテーマパークにする」そんな議論は甘いのだろうか。
金払うから、言うこと聞いて
こんな話もある。画廊の社長と話していてこんなことを言われた。「『1億円出すから、この絵に何か描き加えて』と言われたら、します?」
どうだろう。1億円だったら「イエス」でしょう。では「1億円で買うけど、燃やすゼ」って言われたら。「1億円で?ウーム」と思いつつ「また違うの描きゃいい」と考えるに違いない。
これは、作品は誰のものか?それはお金で買えるのか?という議論だ。落語のような芸だったら、1億円で一生専属契約ということになってしまうだろうが、絵だったら違うの描けばよい。いや、その絵が複製されて永遠に利用料が入ってくる可能性もあるんだったら、この世から消されるのはイヤだけど。
お金を貰って感謝される
5月21日のNHK「あさイチ」は、「実家を解体する」特集をしていた。そこに、解体された家の木材で、小物入れやお皿を作る彫刻家の方が出ていた。実家を解体することになり、作品作りを依頼した、とあるご老人は完成された作品に涙でお礼を言っていた。
「大改造!!劇的ビフォーアフター」でも、依頼者は、最後必ず「匠」に「先生、こんな素敵にしてもらって」と感謝する。依頼料は高いはずだが、それでもお金を払う側が感謝する。
art – 技術と美術
色々考えると表現者がお金を貰うのは、なかなか大変そうだ。前回のポストで紹介した松宮秀治氏の「芸術崇拝の思想- 政教分離とヨーロッパの新しい神」は、「技術」や「美術」は「art」から派生したが、「美術」だけが歪んだ形で世間を彷徨っている姿が論じられている。その歪んだ姿とは、「わからないアンタはバカだ」的な表現崇高主義に表れるという。
その姿は、「一生懸命やっているのに・・」というモラルに訴える姿にも少し似ているし、芸がわかる客が少なくなったと嘆く芸人の姿にも似ている。
権威とお金
談志師匠が嘆いた50年前の状況から、村木良彦さんの「お金」と「表現」の均衡圧力は、いまだ続いている。
それは、この50年が表現の「権威」付けの空白時期だったからだろうか。松宮秀治氏が指摘する権力による展示の一部に、テレビも含まれると思うが、テレビによる表現の権威付けも視聴率という量がメインである。「いいね!」や「リツイート」の量を追いかける方向性も、視聴率のコンセプトと同じであると言えよう。つまり、マスメディアがデジタルに拡大するときに、ソーシャルな方向性に行っても、それは量を拡大するアナログコンセプトの再生産に過ぎない。それよりも、談志師匠が言う「ウマい」芸を権威づけし再生することが、メディアとしての権威付けとなるであろう。この辺は、河尻さんの「ハブ」論に繋がるだろうか。(時代をリ・パッケージする 2011年5月23日)
表現力と構想力
では、表現者はどうこの世知辛い世間を生きていけばいいのだろうか。もう経済成長はあまり望めないから、表現やデザインが求められるハズだということを主張し続けても、あまりピンと来ない。
村木良彦さんは「ぼくのテレビジョン」で、「テレビジョンによって何を表現するのではなくて、どのようなテレビジョンをつくるかへの質的変換」が必要である、という。「どのような表現をつくるのか?」を考え続けると、「どのような社会をつくるのか」にも繋がってくる。
こうして考えると、表現者には、テクニカルな「表現」力ではなく、「構想」力が必要であると痛感する。つまり、生きていく場を作るのがまず最初なのであろう。
志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取 締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka
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