あやぶろ/OLD

テレビの中の人による唯一のテレビ論、メディア論ブログ

© あやぶろ/OLD All rights reserved.

20117/11

『戦争と広告』は無粋なタイトルの割にはとても刺激的だった。― 前川英樹

「戦争と広告」というまことに無愛想なタイトルの本を読んだ。著者は広告クリエイターとして数々の実績のある馬場マコト、出版社は白水社。タイトルの無愛想さに比べて、とても面白かった。

戦前の資生堂で宣伝を担当していた山名文夫が中心になり、森永の新井静一郎などともに、大東亜戦争プロパガンダのための<報道技術研究会>を立ち上げ、名取洋之助が日本に持ち込んだバウハウスの方法論などを駆使して、当時の日本の宣伝広告の最高水準の仕事をしたことを掘り起こしている。

馬場マコトはこう書く。
「時代の中でしか商品が生き残れない以上、広告はその商品がいかに時代的かを訴求するしかない。それが広告というものの宿命に他ならない。商品に加担することは、時代に加担することといつも一緒なのだ」。
山名たちのスタンスをこう位置付けつつ、<報道技術研究会>を「広告企画制作の世界において、いまでは常識になっているクリエイティブ・ディレクターのもとに職能集団が集まり、複合的に広告表現を創出していく、プロダクション・システムの、おそらくこれが最初のものになった」と評価する。
こうした評価を踏まえ「広告はその得意先が百年戦争を覚悟する狂気の集団であろうと、得意先の依頼に対して『自分たちの技術を最高度に駆使して』応えようとするものなのだ。・・・いつの時代も広告制作者は自分の技術と感覚でより新しい表現の価値観を創造しようとする」と総括している。開き直ってるのかと思わせるフレーズだ。

しかし、馬場マコトはあとがきでこうも書く。
「いまふたたび憲法九条について語ると、なんだか古い人間に思われたり、左傾化した人間に思われるのだが、思想は関係ない。私は右でもなく、左でもなく時代の子として言おう。
『戦争は嫌だと』
なぜなら時代の子である私は、必ず広告企画者として戦争コピーを書くだろう。そして、山名文夫よりも、新井静一郎よりも、花森安治よりも優れたコピーを、作品を作ろうとするだろう。いや確実に作る。だからそんな時代を迎えないためには、戦争をおこさないことしかない。どんな時代になっても、戦争を起こさないこと、これだけを人類は意志し続けるしかない」
ここに、著者の誠実さが込められていることに疑う余地はない。

ただ、別の読み方をすれば、それは広告制作者のためのエクスキューズとも取れよう。それは、ただの底意地の悪い読み方とはいえないだろう。何故ならば、第一に、これは広告だけに当てはまる話でなはない、つまり、著者の意図とは別に、ここに書かれていることは「広告は特殊だ」ではすまないところにまで踏み込んでしまっているからだ。
第二に、「だから戦争をしてはならない」という誠実さは、「だが、戦争は起こるだろう」という認識を越えられないからだ。いま、おそらく東日本大震災と「フクシマ」の日本だけでなく、ジャスミン革命も、ギリシャとポスト・ギリシャのEUも、格差拡大の止まらない中国も、IT革命後のアメリカも、つまり世界は新しいステージに入りつつあるのであろう。こうした時代状況の延長として、国家は「新しい正義」を求めざるを得ないだろう。正義は他者を不正義とすることで成立する。ということは、新しい戦争、21世紀的戦争は起こるであろうと考えた方が良い。その時、新しい広告宣伝技術は、20世紀的方法ではない形で<報道技術>を研究し、新たな地平を開拓するだろう。

いわゆる<報道技術>と同じ意味での<技術>は、映画「ハワイマレー沖海戦」(東宝・1943年)の円谷英二の特殊撮影技術もそうだったのだろう。それが、後のゴジラに発展するのは、山名文夫が、戦後も資生堂の広告を日本の広告宣伝の前線に立たせたことと相似形をなすと考えられないか。

こうした感想を抱きつつ思いだしたのは、「肖像の中の権力―近代日本のグラフィズムを読む―」(柏木博・講談社学術文庫)の「戦争のグラフィズム」だった。
「グラフ雑誌『FRONT』の画面構成は、すでに見たように、ロシア・アヴァンギャルドが生みだしたグラフィズムのヴォキャブラリーを多用していた。革命のグラフィズム(言語)が、そのまま翼賛体制のグラフィズム(言語)として有効性を持ったということである。加えておけば、ロシア・アヴァンギャルドが戦略的に使い始めた、クローズ・アップや近景から遠景にいたる意図的な遠近法的画面の構成法は、『FRONT』にそのまま現れただけでなく、第二次大戦後の、アメリカ製の大衆娯楽映画のポスターにさかんに使われるようになった」
「FRONT」は戦時下日本の対外宣伝雑誌として、参謀本部直属の団体東方社が編集発行し、当時第一線のデザイナー、カメラマン、そして知識人たち参加していた。例えば、「編集長の岡田桑三、アートディレクターの原弘のほか、今泉武治、高橋錦冶、木村伊兵衛、風野春雄、浜谷浩、菊池俊吉、渡辺勉といったデザイナーやカメラマンが参加しており、また、林達夫、中島健蔵、春山行夫、岩村忍らが起用力していた」(柏木博 同上)という。昭和前期のアートや思想に多少の関心のある人であれば、ここにあげられた人たちの何人かの名前を知っているだろう。
その意味では、「FRONT」は、戦争構造の中で「報道技術研究会」の仕事とほぼ同じ関係を形成していると考えられる。尚、「FRONT」のドキュメントとしては、「戦争のグラフィズム―『FRONTを創った人々』―」/多川精一・平凡社ライブラリーに詳しい。

「どれほど実質を変えようと、形式が同じなら、その表現の意味は基本的には変わらないのではないか。さまざまなイデオロギーや思想の対立を越えて、たちまち<大衆のまなざし>を支配してしまうグラフィズムが、インターナショナルな近代のグラフィズムであるとすれば、ロシア・アヴァンギャルドが生みだしたそれは、まさしく近代のグラフィズムであったといえる。したがって、それはもちろん、実質と形式とが織りなす矛盾をそのまま含んでいた」(柏木博 同上)

馬場マコトは「戦争と広告」で広告制作者の行為の意味を解き明かそうとしたが、それは結局のところ、いかに<大衆のまなざし>を支配するか、というこの一点に収斂されてしまうのではないだろうか。少なくとも、戦後の日本社会に登場したテレビジョンは、マス媒体=同時的複製性のメディアとして、この力学をまことに見事に具現化している。
では、ウェッブ上の表現は、この近代のグラフィズムの構造の内なのか外なのか、あるいはそこに表現者個人の責任は成立するのか、それとも不在なのか。
思うに、広告制作者に限らず、生きていることそのものが時代に参画することであるとするならば、その時、表現技術の粋を尽くすという行為に、個人の表現責任が込められてしまうのではないか。むしろ、問題はその責任の問い方の戦後的未熟が、今なお放置されていることのように思うのだ。

それは、例えばドキュメンタリーに限らず、テレビ的表現の問題でもあるだろう。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。

20146/18

そこに、パースペクティブ=展望はあるか?2014年の論点⑤

停滞する民主主義が進化する途 ワールドカップの中継番組の瞬間最大視聴率が50.8%だったそうです。このニュースを見…

20146/18

そこに、パースペクティブ=展望はあるか?2014年の論点④

ストレンジなリアリティー:ガンダムUC ep7を見て考えたこと 『機動戦士ガンダム』は30年以上前に、フォーマット…

20146/17

情報“系”の中のテレビジョン

6月は、いろんなことがある。 会社社会では6月は大半の会社の株主総会の季節だから、4月の年度初め、12月の年末とともに一つの区切りの季節だ…

20146/16

テレビというコミュニティ。あやブロというコミュニティ。

あやとりブログに文章を書くようになってかれこれ二年以上経ちました。2011年に出した『テレビは生き残れるのか』を読んでくださった氏家編集長か…

20146/13

ワンセグ全番組タイムシフト視聴は視聴率を下げるのか検証してみた〜ガラポンTV視聴ログより

リアルタイムの放送をテレビで視聴する人が増えることは良いことです。 言うまでもなくこれは「視聴率が上がる」ことを意味します。 &nb…

ページ上部へ戻る