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201012/28

「須田的<17世紀を勉強しよう>論を読んで、トリュフォーの『華氏451』を思い出した」 ― 前川英樹

< 須田的>拝読。
 「サクッと」の割には力が入ってしまった感じですね。アッ、そういう風に読まれたかとか、チョッと違うんだよねとか、いろいろありますが、誤解も理解のうちであり、そこからコミュニケーションが始まります。
 例えば、「・・・<近代国家>は高々300年程度のものにも関わらず、何故国家が人間の行為としての生活や仕事、この場合でいえばネット/サイバー空間を支配する(=出来る)のか」を引用しつつ、「これは、賛美こそしていないものの、ウィキリークスに対する、支持表明に1票入れる問いかけではないだろうか」というのは、”ちょっと待った”というところです。ここは、国家(あるいは権力が、必死に< ウィキリークス的>なるものを支配しようとしている、その理由について書いたのです。権力って結構凄い、だって全てを支配しようとしてるんだから…みたいにね。
 でも、「国家や会社よりも『サーバー』への帰属意識が高い自分にとっては、『権力』とはすなわち、『サーバー・メンテナンス』だったりする。(笑)」という行に出っ食わすと、「そうかぁ、そう来るか…権力って、今風にはそうなんだ」と思ったりします。
 痛感したのは、ぼくの生きた60年代というのは生活と政治の距離がとても近かった、つまりすぐ隣に、というのは少し言い過ぎだけど、少なくとも割と傍の、学食の鯵フライ定食みたいな感じで「革命」というコトバ言葉が飛び交っていて、その感覚は時代固有のものだから、須田さんにそのリアリティーがない(当たり前だよね)、ということでした。21世紀が17世紀に回帰するというのも、そのへんと関係するわけで、だから< 須田的17世紀>ってどんな?(と、ここは語尾上がる)と思うのです。
 だけど、逆にネット社会のリアリティーをぼくが分かっているかと言えば、分かってないというのが正直なところでしょう。なにしろ、デジカメ付ケータイは嫌いだし、ツィッターも触ってみたけど続かないし、スマートフォンは持ってないし・・・。でもね、分かったことしか言ってはいけないとしたら、コミュニケーションなんて成立しないよね。「どのように分かってないか」、あるいは「何が分かっていて、何が分かっていないか」そして< その勘所>ということは、その意味でとても大切だと思う。これって、想像力の魅力と危うさ、かな。
 これまた「例えば」だけど、テレビに< 帰属>する立場で、ネット系や情報学的人たちなどとパネルなどに参加した時、ここのところがとても難しい。で、こっちがナーバスな割には、その< 系>的人々から、結構大雑把に< 守旧派>として括られてしまう。「まあ、そういわないでさぁ・・」と随分言いたかったけど、「でも、結局のところそうでしょ」と思われているのだから、マ仕方がない。
 話を少し戻せば、ネット空間での情報流通がはたしてコミュニケーションとして成立しているのだろうかという疑問から、ネット社会における「万人の万人に対する闘争」的なるもの、にフト思い至ったのでした。
 須田さんはこう書く。「もし、グーグルが『権力』を行使するとしたら、それは、『地球上のすべての情報を整理し尽くす』という、たったひとつの社是のために、だろう」
「それは、ウィキリークスの理想とも合致する、極めて21世紀的な、ワールド・ワイド・ウェブが生まれた時からの夢である」
 これは素晴らしいことか、それとも恐ろしいことか・・・ここで、トリュフォーの映画「華氏451」(1966年)を思い出しました。この世で書物を読むことが禁じられている世界の話です。

「華氏451度は、本が自然発火する温度である。すべてが機械化されたこの時代は、あらゆる知識や情報はすべてテレビによって伝達され、人々はそのとおりに考え、行動していれば平和な生活ができるのである。そこでは読書は禁止されており、反社会的という理由で、本はみつけ次第、消防士(英語でFireman)たちによって焼きすてられた・・・」 (ウィキペディア)

 ゴダールに執着する須田さんなら、同時代人トリュフォーは知ってる…よね/かな?
 須田さんはまたこうも書く。「それは、テレビ局や、国家や、そもそもユーザー自身という、きわめて『人間的なモノ』に対して、インターネットという『機械的なモノ』が、未来から挑戦をしてきているのだ、と取ることも出来るかもしれない」。
 国家を「人間的なもの」とするのは剣呑(ココが須田的問題)だが…アッ、そうかこの世の政治的権力は人間的で、グーグル的権力が機械的という意味か、だよね、須田さん?…、このコメントのテレビ局を紙の本に、インターネットをテレビに置き換えれば、「華氏451」の世界と通じてしまう。トリュフォーは凄い(原作者のブラッドベリーも凄いのかもしれないけど、申し訳ないけど良く知らない)。ラストシーンは< 文字弾圧>から逃げてきた人たちが、森の中で記憶した数々の古典を呟きながら思いを籠めて歩くシーンだったと思う(この「呟き」とツィッターのなんたる違いか!)。< 知>と< 知識>を巡るトリュフォーvsグーグルというのは正月の屠蘇の話題として良いかもしれない。

 などと、思いつつ今年は終わる。来年また続きをやりましょう。

                         □

■(マイケル・ムーアの映画「華氏911」は、「華氏451」にちなんでつけられたタイトルだが)『これについて、ブラッドベリーは「了解もなしに、数字だけを変えて題名を使った」、「恐ろしい人間だ」などとムーアを非難し、映画の内容についても「わたしの意見とは何の関係もない」と語っている。ムーア側は『華氏451度』に敬意を表して映画タイトルに使用したと発言している』とのこと・・・ウィキペディアより
■「華氏911」をぼくは観ていない。
■今回、< 須田的>など< 的>を意識< 的>に使ったところがあります。「私的には・・・」というような意味不明の言葉へのカウンターのつもり。

TBSメディア総合研究所“せんぱい” 前川英樹

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