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20124/26

4・26【テレビに表現形式と言えるものがあるのだろうか-三つの写真展を観て思ったこと-】前川英樹

 

東京都写真美術館のシニア会員の更新の時期に来ていたので、恵比寿まで足を運んだ。丁度観たかった展覧会が三つも同時開催されていたので頑張って一日で観てしまおうと思ったのだ。

「幻のモダニスト―写真家 堀野正雄の世界―」、「フェリーチェ・ベアトの東洋」、「生誕100年記念写真展・ロベール・ドアノー」。どれも面白かった。

 

「幻のモダニスト―写真家 堀野正雄の世界―」
堀野正雄のことは知らなかった。機械工場や列車、艦船などを素材にした写真はいかにもモダニズムだ。村山知義や大宅壮一と組んだ組み写真によるモンタージュ(グラフ・モンタージュ)の連作は、1931~2年の時代にしては過激なまでに社会派的(階級的)であり(*)、しかし結局その手法がそのまま翼賛的写真に繋がってしまったのだろうか。戦後カメラマンであることを断念したというが、そのあたりが背景にあったのかどうか。

*註:戦前の左翼運動は、既に1928年の3.15事件、1929年の4.16事件などで壊滅的な打
撃を受けていた。吉本隆明の「転向論」に出てくる佐野・鍋山の転向声明は1933 年。

観終わって、柏木博の「戦争のグラフィズム―対外宣伝雑誌『FRONT』のデザイン―」(「肖像の中の権力・近代日本のグラフィズムを読む」 講談社学芸文庫所収)の文章を思い起こした。
「グラフ雑誌『FRONT』(*)の画像構成は、すでに見たように、ロシア・アヴンギャルドが生みだしたグラフィズムのヴォキャブラリーを多用していた。革命のグラフィズム(言語)が、そのまま翼賛体制のグラフィズム(言語)として有効性をもったということである。加えておけば、ロシア・アヴァンギャルドが戦略的に使い始めた、クローズアップや近景から遠景にいたる意図的な遠近法的画面構成は、『FROT』にそのまま現れたばかりでなく、第二次大戦後の、アメリカ製の大衆娯楽映画のポスターでさかんに使われるようになった。」
「どれほど実質を変えようと、形式が同一なら、その表現の意味は基本的に変わらないのではないか。さまざまなイデオロギーや思想の対立を超えて、<大衆のまなざし>を支配してしまうグラフィズムが、インターナショナルなグラフィズムであるとすれば、ロシア・アヴァンギャルドが生みだしたそれは、まさしく近代のグラフィズムであったといえる。したがって、それはもちろん、実質と形式とが織りなす矛盾をそのまま含んでいた。」

*註:「FRONT」第二次大戦中に編集発行された対外国家宣伝雑誌。1942年~1945年の間に「海軍号」「陸軍号」など10冊編集(刊行9冊)。戦前では最高レベルの写真・構成・編集・印刷技術が駆使されていた。カメラマンとして木村伊兵衛、濱谷浩、企画に林達夫などが参加。参考「戦争のグラフィズム・『FRONT』を創った人びと」(多川精一 平凡社ライブラリー)

何度も繰り返し触れたくなる文章というのがあるものだが、これもその一つだ。
特に、「どれほど実質を変えようと、形式が同一なら、その表現の意味は基本的に変わらないのではないか。」というのは、「<大衆のまなざし>の支配」を生業(なりわい)にしているマスメディア、マス広告に関わるものが何度でも立ち返るべき論点であろう。
メディアに関わる<「私(=個人)」のまなざし>は、<マスメディア(例えば、テレビ局の編成意思)のまなざし>を通して、どのように<大衆のまなざし>と関係するのか、それこそ<3.11>を記録した「記者たちの眼差し」の問題に深くかかわる。
テレビの表現形式がモダニズムと言えるのかどうか、あるいはテレビに表現形式というものがあるのかどうか。一方では、「テレビの特性はライブ性にある」という問題意識を巡り、ソーシャル・ネッワークとの関係性が論点となっているのに、このテレビの表現形式という問題は、ドキュメンタリーの演出とやらせの関係として話題になることはあっても、どこまで踏み込んだ議論になったのだろう。
映画とテレビの表現方法はどう違うのかといえば、<ライブ中継>から始まったテレビのそれは、は明らかに<記録>から始まった映画とは違う(はずだ)。その違いをどこまで方法化出来ただろう。この場合、方法の違い(=形式の違い)は存在理由の違いでもあるはずだ。写真や映画の<言語>と違うテレビの<言語>を、私たちは生みだしただろうか?
また、バラエティーというジャンルに表現形式と言えるものがあるのかどうかといえば、それは確かにあった。「11PM」も「シャボン玉ホリデー」も「全員集合」も、それぞれにそれはあったのだ。優れた制作者たちが残した番組を、そうした目線でもう一度見直してみることも必要だろう。そして、それが何故失われたかということも。レビューという行為はそのためにある。
そして、もう一つ。若し、その時代の最高度に洗練された技法が駆使される場に参加できるとすれば、その意図が何処らあるにせよ、それを拒むことが表現者に出来るだろうか。広告宣伝の先人たちの歩みは、そこに重なる。(*)
実質と形式、政治と表現、「まなざしの集約」に拮抗する<個>、ソーシャルネットワーク社会で人はこの問題にどう向き合うのだろう。
*参考:「戦争と広告」(馬場まこと・白水社)

 

「フェリーチェ・ベアトの東洋」
下の写真の女性は女形だという説が有力だという。
ベアトの写真は良く知られているものが多い。記録としては貴重な文化遺産だが、その視線はオリエンタリズムそのものであり、支配者による植民の記録にほかならない・・・と、いうことも含めて興味深かった。
では、途上国といわれる地域を取材するテレビ記者やカメラマンは、どういう視線で、その土地を、そして人々を見ているのだろうか。それは<3.11>の被災地にどういう視線を向けるのかということにつながるだろう。あるいは、オキナワに。

 

そして、「生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノ―」。
ドアノーは過剰なまでに優しい。パリの恋人たちや子供たち、芸術家のポートレートなど。
どこまでも、「状況が写真になる」のをじっと<待ち>続ける。そして、そこには写真家の意図が仕掛けられている。
レジスタンスの断面を切り取った写真からは、占領下のパリの逼迫感が静かに伝わってくる。舗石を剥がしてバリケードを作る市民たちの写真を見て、1968年の学生たちのことを思った。舗石を剥がして抵抗する精神が、パリの人々に流れているのだろうか。いまのパリに舗石の道路はあるのだろうか。などと思っているうちに、写真集を買ってしまった。

 

<さて、ところで、いまテレビは、“待つこと”を忘れていないだろうか。>

 

(ここで、「あやブロ」初登場の津山さんポスト(from PARIS)がアップされた。・・・で、このドアノーの写真展の部分は津山さんのあや取りになってるかなァ)

モノクロ写真が何故人を引き付けるのかについて、専門的な知見はぼくにはない。色がないから、色を想像するという説があるというが、どうも違うように思える。むしろ、色という情報がないことによって、写された状況あるいは被写体の本質がより抽出されているように思えるのだがどうなのだろう。陰影情報だけであることによって、対象の抽象化=本質の表現が可能になる、というのはどうだろう。そうだとすると、そのとき色情報はノイズなのだ。あるいは、逆にカラー撮影には色情報の中にノイズまでは取り込まれていないために、綺麗すぎてリアリティーを喪失しているのかもしれない、なとなど。
映像メディアとして映画に追い付きたかったテレビは、映像についてどれほどの表現論を構築してきただろうか。

・・・と、ここまで書いてきて、さっきの「テレビには表現形式があるのか」ということを思い返してこう思った。もはや、テレビに表現形式なんていらないのではないか。その時々の世情に添い寝をしつつ、ディレクターの勘と度胸でパッパッと仕事をすれば、それでテレビはいいのだ、と。その方が、テレビらしいのではないかと。
でも、それって寂しいよね。やっぱり、形式あるいは方法は大事なのだ、そう思いたい。それに、「パッパツト」する仕事にだって、制作者がどう思っているかとは関係なくスタイルというものは抜け難くあるはずなのだ。

 □

「今日の<ポストモダン>と呼ばれている事態とは、電子テクノロジーによる、徹底したモダン状況なのではないか。近代の近代性とはいったいいかなるものなのかという基本的な問いを、さらに徹底して突詰める必要がるだろう。」(柏木博 前掲書「原本あとがき」1987年)という思いに、四半世紀たったとはいえ、いまも強く共感している。その一方で、20世紀は19世紀の延長だが、21世紀はそれとは別のステージだという指摘にも、頷いてしまう。まことに、自分の生きている時代というのは分からない。分からないからあれこれ考える。それでいいのかもしれない。

この三つの写真展のことと、「あやブロ」仲間の須田和博さんがBRAINに書いた「現実を変える『実現クリエイティブ』」とを関係させて書こうと思ったが上手くいかなかった。前回の「あやブロ」が中途半端なのは、そのせいでもある。

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

 

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