あやぶろ/OLD

テレビの中の人による唯一のテレビ論、メディア論ブログ

© あやぶろ/OLD All rights reserved.

20115/25

[テレビは何を失ったか、あるいはテレビはレッドカードを出されたか。-続・TBS「調査情報・500号」を読む] 前川英樹

原発は、メルトダウンしてたんだって、それも三基とも!!!
日本沈没中である。
長野県戸隠で[3.11]を経験した夜、長野県北部でも震度6の地震があった。足止めされた宿で、夜中に大規模地震の連続的発生を知って、直ぐに「日本沈没」を思った。小松左京の「日本沈没」は日本列島の沈没と、それに向き合う日本人の行動を描いた傑作だと思うが、いま進行中の事象は、日本列島ではなく日本の沈没、日本の政治社会的システムの沈没ではないか。

「調査情報・500号」の宮台真司氏の緊急寄稿には「従来型のマスコミが確実に崩壊せざるを得ない理由」というサブタイトルがついている。宮台さんの考察によれば「従来型マスコミ」である放送も「沈没中」ということになる。
・・・と書きだして、2000字ほど書いたところで、「放送人の会」総会に出席して「放送人グランプリ」贈賞式にも参加した。その翌日河尻さんから「あやプロ」原稿が届いていて、藤波心の『ここっぴーの★へそっぴー』(3月23日)のことを知った。・・・で、全部書き直すことにした。どちらも刺激的で、面白かった。というのが、続編が遅れた言い訳だ。

(1)(「調査情報」500号で加藤秀俊氏が言うように)テレビから「制作者」はいなくなってしまったために、テレビは「怠惰に」、そして「無気力に」なってしまったのか。「従来型マスコミ」としての放送の崩壊とは、そのことか?

放送人グランプリは「放送人の会」の会員が、1年間を通して視聴した番組を推薦し、それを選考して賞を贈るというもので、制作・放送した側からのエントリーではない。だから、受賞者は突然「あなた(の番組)を表彰します」というお知らせが来るという仕組みである。
今年の<グランプリ>は、在日コリアンと亡命ミャンマー人の娘との恋を描いたドラマ「大阪ラブ&ソウル」制作スタッフ(NHK大阪)、<特別賞>は、「敗戦とラジオ」などを制作したディレクター大森淳郎氏(NHK)と、「田舎のコンビニ」など奥能登の過疎に生きる人々を追った中崎清栄氏(テレビ金沢)、<奨励賞>は農業政策に翻弄される農家とその農業政策を立案推進した行政をカットバック的手法で捉えたETV特集「なぜ希望は消えた?あるコメ農家と霞が関の半世紀」制作スタッフ(NHK)と、津軽三味線・高橋竹山を新しく発掘した音源を活かして描いた「高橋竹山生誕100年記念 ラジオドキュメンタリー・故郷の空に」制作スタッフ(青森放送)、そして障害者とともにバリアフリーを検証し、笑いに昇華させるという日本初の障害者バラエティー「きらっと生きる バリバラ~バリアフリー・バラエティー」制作スタッフ(NHK大阪)、が夫々受賞した
選考委員長の堀川とんこうさんによれば、今年は推薦番組が非常にバラケていて、全体に渋めの結果になったという。確かに、これらの番組をいくつも視聴した人々はそうは多くない。この結果を眺めて直ぐに分かるのは、民放の東京キー局がない(大阪も名古屋もない)ということだ。この数年、何らかの形で東・阪・名は受賞していたから、ことしが異常と言えなくもないが、それにしてもチョット問題だ。
何が問題かといえば、民間放送の本来の趣旨は、公共放送ではない放送局による表現の自由の多様化だったはずなのに、大手民放局、特にキー局のドキュメンタリー制作が空洞化していることである。例年、ドキュメンタリー部門では、放送人の会や放送批評懇談会だけでなく、民間放送連盟賞でさえ地方局制作者の切実な努力・意欲による番組を評価することで、民放ドキュメンタリーのアリバイにして来たのだ。
加藤秀俊氏は「消えた制作者」で、「むかしの放送界には制作者という名の人物がいて、誇りと、含羞と、不安とがいりまじった感情をもちながら番組をつくっていた、という歴史的事実・・・」と書いている。「放送人グランプリ」の贈賞式に参加して、「制作者は消えていない」と思いつつ、しかし彼らは放送の中心にいるわけではない、では中心に誰がいるのかといえば、そこには誰もいないのであって、ただ空白なのだ・・・と思ったのだった。
つまり、「従来型マスコミの崩壊」とは、取材・編集・配信という情報処理能力の問題ではなく、(NHKはいざ知らず)民放がその存在利用であるべき、<NHKとは違う経営形態による表現の自由の多様化>という、まさに経営哲学の根本の忘却あるいは放棄によるものと考えた方が良いであろう。これは「心の習慣」(宮台論考)の問題なのか、そうでないのか。

(2)それでは(宮台真司氏が言うように)、テレビは信用を喪失したとして、その回復は可能か、それとも回復不可能な地点にテレビは立ってしまったのか、つまり、テレビにレッドカードは出されたのか。

河尻ポストに教えられて、藤波心の『ここっぴーの★へそっぴー』(3月23日)を読んだ。やっぱり、フームと感心した。その感心は、書き込んだ人たちの多くが「中二なのにとても良く考えている」ということよりも(確かに良く考えているとは思うけど)、情報への感性の良さにある。この感性、感度の良さは、この子たちの年代共通のものかといえば、同世代の子たちによる「えらいなぁー」というような書き込みもあるのだから、そういうことでもなさそうだ。こうした感性の良さで情報を受け止め、その反応が生活の場を越えた情報空間として成立するのがソーシャルメディアというものなのだろう。確かに、マスコミが崩壊するかどうかということではなく、新たな<場>が出来ていることが実に良く分かって、溜息が出そうだった。そこでは、宮台的難解さを軽々と越えて、マスコミもまた<ヘンなものはヘン>という視線に曝されている。
「放送人の会」に来ていた秋山豊寛君(元TBS、あの宇宙飛行士で、いま福島県で農業に従事)が、「検出された放射性物質のデータを見れば、原発の炉心に何か重大なことが起こっていると思うのが当たり前なのに、どうして記者はそれを質問しなかったのか」といっていた。心君は、あっという間にこの優れた(元?)ジャーナリストと同じ地平に立ってしまったのだ。
さて、そうであるとして、「従来型マスコミ」は「確実に崩壊せざるを得ない」のか。少なくとも、①マスコミに内部的に乃至は主体的に関っていて、②尚且つ、マスコミの現在を真摯に見れば「憂うべき状況」であることを認識し、③それでも「不可能性」より「可能性」に賭けようとする者は、「ハイ、確実に崩壊します」とはいえまい。もちろん、ノー天気な、つまり加藤秀俊氏がいうところの、マスコミの中の匿名性に隠れて仕事をしている者だってそうは言わないだろうが、ここではそれは論外としておこう。
これまた前回書いたと思うが、「確実に崩壊します」とはいえないその内実が、よしんば「論理的な可能性であって、現実的には不可能性」であろうとも、やはり「崩壊」を認めないところからしか、「可能性」は始まらないのである。それが、内部にいるという意味であり、関わるということであり、職業を自覚するということだ。その一点を失った時、「従来型マスコミ」の信用は回復不可能な地点にまで崩落するであろう。その意味で、間違いなく2枚のイェローカードを貰ってしまったと考えた方が良い。

かつて、放送局の近未来のあり方を提言したときに、そこに報道部門をニュース会社として独立させるべしという項目があったが、「べき論」でいえば、“今”その選択をした方が、「信用」を商品として明示できるのではないかと思うのだが、どうだろう。

(3)宮台論考についての若干のメモ

「さしあたってこれだけは」というサブタイトルが付けられたこの論考は、「心の習慣」をキー概念にして、今回の大災害、特に原発問題へのこの国、そしてこの国の人々の対応について考察している。おそらく、緊急の原稿依頼であったであろうにもかかわらず、またそうであるが故に論文ではなくノート型という既述スタイルを選択したことが、論点を明確に浮かび上がらせていて流石と思わせる。もちろん、「心の習慣」なる概念に初めてお眼にかかったので、こちらがそれを的確に理解しているかどうか怪しいところもある。
一つだけ気になった。
宮台さんは、「総じて『平時』に頼る<システム>が回らなくなったとき、それでもお手上げにならずに生きていけるか、それがソーシャルキャピタル(人間関係資本)の多寡を示す指標になる」とした上で、今回の原発事故について「充分なリアルタイムの放射線モニタリングがなされていない」と判断し、山荘に自分や知人の子供たちを疎開させたという。それはそれで良い。だが「子供を疎開させなかった家庭の中には、ソーシャルキャピタル(人間関係資本)が乏しく疎開出来なかったところも少なくなかったのではないか。でも、自分に人間関係資本が乏しいと思いたくはない。だから、政府や東電を懐疑する発言をデマだと決めつける」、というのはチョット飛躍ではあるまいか。
山荘あるいは山荘を持っている知人というソーシャルキャピタルがないことと、政府・東電の情報を信用することは別であろう。傾向的にそう言えるかというと、そうでもないのではないか、宮台さんは、ツイッター上のリアクションを見てそう認識しているようだが・・・。
例えば、原発事故発生後10日ほどしたところで、ぼくの知人の村上さんは「圧力容器か格納容器に穴が開いてるんじゃないかね」と言っていた。つまり、はなっから東電などは信用していないのだ。「昭和20年に満州で終戦だったけど、国家が如何にあてにならないかってことを、身に浸みて分かったね。12歳の少年だって、そのくらいのことはちゃんと見抜いたさ」というのが村上さんの体験だ。こういう人間関係は、宮台さんが言うように、まさにネット上では成立しえない「共同性」である。因みに視力が余り良くない村上さんの情報源は、信頼できる友人とラジオである。「従来型メディア」の情報が“何を伝えていないか”を見抜く力量=知恵も必要なのだ。

宮台さん、心君、秋山君、そして村上さん、色んな視点から状況を見ている。どういう見方をする人間と関係を作れるか、それは確かに大事なことである。それを“ソーシャルキャピタル”というとすれば、では“パブリック”とは何かということと、それは関係するように思うのだが、どうだろう。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。

20146/18

そこに、パースペクティブ=展望はあるか?2014年の論点⑤

停滞する民主主義が進化する途 ワールドカップの中継番組の瞬間最大視聴率が50.8%だったそうです。このニュースを見…

20146/18

そこに、パースペクティブ=展望はあるか?2014年の論点④

ストレンジなリアリティー:ガンダムUC ep7を見て考えたこと 『機動戦士ガンダム』は30年以上前に、フォーマット…

20146/17

情報“系”の中のテレビジョン

6月は、いろんなことがある。 会社社会では6月は大半の会社の株主総会の季節だから、4月の年度初め、12月の年末とともに一つの区切りの季節だ…

20146/16

テレビというコミュニティ。あやブロというコミュニティ。

あやとりブログに文章を書くようになってかれこれ二年以上経ちました。2011年に出した『テレビは生き残れるのか』を読んでくださった氏家編集長か…

20146/13

ワンセグ全番組タイムシフト視聴は視聴率を下げるのか検証してみた〜ガラポンTV視聴ログより

リアルタイムの放送をテレビで視聴する人が増えることは良いことです。 言うまでもなくこれは「視聴率が上がる」ことを意味します。 &nb…

ページ上部へ戻る