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20115/18

[熱かったテレビと信用を失ったテレビ-TBS「調査情報・500号」を読む] ― 前川英樹

CtUsuDogM4.jpgTBS「調査情報」が通巻500号を迎え、「あの記事を今、読み直す」(昭和篇)として、1958年創刊から30年間のアンソロジーという特別編集になっている。皇太子(今の天皇)御成婚中継の現場担当者の総括、岡本愛彦・和田勉・大山勝美のテレビドラマへの熱い思いの鼎談、大島渚の「体験的戦後映像論」、長嶋茂雄引退で生じた“空白”を切りとった沢木耕太郎の「三人の三塁手」、などなど。テレビが、つまり報道や制作の現場だけでなく、経営も含めてメディアそのものとしてホッとだった時代の息遣いが聞こえてくる・・・1970年代までは。

そのことを強く感じたのは、これらのアンソロジーそのものからより、500号編集中に東日本大震災かが発生し、そのため急遽冒頭に掲載された宮台真司氏の特別緊急寄稿「東日本大震災〜さしあたたって、これだけは」と、これらのアンソロジーとの関係によるものである。
その宮台氏の論考は、概ね「なるほど」と思いつつ興味深く読んだ(若干の疑問はあるが、それはまた別途)。そして、その最後は「今回の震災で、原発事故報道解説の杜撰さや、自然エネルギー紹介番組欠落などを通じて、マスコミは信頼を失った。佐々木俊尚氏の『2011年新聞・テレビ消滅』(文春文庫09年刊)が現実化しつつある。<心の習慣>を克服した者は、従来のマスコミを相手にしない。」という文章で括られている。
註:この<心の習慣>とは、「官邸が悪い、東電が悪い、御用学者が悪い、マスコミが悪い」というような「個別的帰属」のレベルでは問題は解決できないのに、そうした対処を求める根強い惰性的態度のことを指しているようであり、それが「行政官僚を掣肘できない<民度の低さ>」と「行政官僚制の内部に巣喰う<悪しき共同体>」を固定化しているという・・・とぼくは解釈した。

いま、2011年に宮台氏によって「信頼を失ったマスコミ」、「<心の習慣>を克服した者は相手にしない」と断定的に評価されたマスコミと、アンソロジーで語られた少々乱暴だが、エネルギッシュで生き生きとしていたマスコミ(テレビ・ラジオ)とはいかなる関係なのであろうか。

アンソロジーの一つ「視聴率の本質は何か」の筆者加藤秀俊氏は、再掲された論文の後に「消えた制作者」という小論を寄せて、「むかしの放送界には制作者という名の人物がいて、誇りと、含羞と、不安とがいりまじった感情をもちながら番組をつくっていた・・・」と書いている。そして、制作者が消え、マスコミのなかに匿名性が生まれたと。では、「制作者が消えた」からマスコミは信頼を失い、相手にされないことになったのだろうか。そう、その通りだと言えなくはない・・・と、率直に思う。
この加藤氏の小論もそうだし、アンソロジー特集全体を読んでもそうなのだ。つまり、テレビは何を失ったのだろうか。

「富は獲得するものであると同時に、なんらかを失うものであるのかもしれない。人はあれもこれもすべてを所有することはできないのである。スペインは新大陸から莫大な富を獲得した。そのかわりにスペインは宗教的情熱に燃えた強靭な騎士層、ようやくにして発展せんとしていた中産的ブルジョワジー、そういったスペインの真の富を失ったのであった。帝国の外延が拡大すればするほど、帝国内部の弱体化が進行する。この歴史のアイロニーからスペインもまた免れることは出来なかったのである。」(舩橋晴雄「パルセローナの船」、「イカロスの墜落のある風景―欧州経済史紀行―」・創世記社 所収1983年)」

この文章を引用するのは三回目で、最初は1980年代半ば(それも「調査情報」だった!)で、この文章を読んだ時に、「まさに、これはテレビのことではないか」とそう思った(二回目は「メディア論ノート2002」・「高度情報化社会の未来学」NTT出版所収)。多少手前味噌でいえば、だからこそ民放では出来ないと言われたハイビジョンに向き合い、そこからハイビジョンを理由にしたBS参入も、そして地デジも、何とかしようとしたのだった。
それで、何とかなったといえば、まァ何とかなったのだろう。だが、それだけでは、テレビがどうにかなるものではない。そして、その挙句「信用ならない」と言われるところに来てしまった・・・そう言われ出したのは大分以前からだが・・・。

TBS「報道特集」の金平キャスターは、この「調査情報」500号の、連載「メディア論の彼方へ」37「われら皆、『大津波』の同時代人、われら皆『フクシマ』のこどもたち」で、「ぼくは1995年に阪神大震災の取材を経験していたが、今回のそれはかつての経験をはるかに超えているように思った。それは、地震から数十分後にNHKのヘリコプターが報じた宮城県名取市上空からの映像を見たからだ。・・・その『濁色の巨大なヒル』はすさまじい速度で地を這うように進み、あらゆるものを飲み込んでいる。」と書いている。この映像を、ぼくは長野県戸隠の宿のテレビで見て、17時頃だろうから何度目かのVTR再生だろうが、息を呑んだ、ということはこの「あやブロ」に書いた。地震と津波の凄まじさと、テレビはやっぱり凄い、ということも。そして、金平君は現地に入り、取材をし、テレビジャーナリズムのあり様とは何かと苦闘を続けている。あの「放懇」のシンポジゥム(「あやブロ」3/10参照)で、「マスメディアかソーシャルメディアかではなくて、マスメディアのソーシャル性こそが問題だ」という問いをそのまま現場に曝している。その「報道特集」について、「電力を特定電力会社から買わなければならぬ社会は変だ」ということを「報道特集」が扱ったのは「画期的」だ、と宮台氏はいう。画期的とは例外的であって、つまり、マスコミ全体の不信用性を覆すものではない、ということだ。

何かを失ったからテレビは信用ならないことになったのか、それとも何も失わなかったとしてもやはりテレビは信用ならないことになっていたのか。いや、いろいろあるけど結構信用されていて、今回のローカル局の頑張りは評価されるべきだし、石巻日日新聞の壁新聞は凄いじゃないか・・・と言い切れるか。言いきった後に、何が残るだろう。
テレビ、あるいはマスメディアの“現場の可能性”とマスメディアの“存在としての頽廃”、ポテンシャルなあるいは論理的な可能性と現実としての不可能性、そしていまテレビ(マスコミ)に関わっていることの“意味”とは何か、などなど。
というようなことを、加藤秀俊氏にあるいは宮台真司氏に問うても意味はない。それは、テレビの中から問い返されるべき問いなのだ。ぼくがテレビの可能性より不可能性に思い致って立ち尽くすのは、この問いがテレビの内部で成立しないであろう現実を思う時である・・・といいつつ、ところでぼくは、いまいかなる立ち位置でこんなことを書いているのだろう。

宮台論考とアンソロジーの間にいまテレビはある。

「調査情報」500号は、ポスト3.11に出された故に、図らずも極めて重要な問題提起をしてしまった。貴重な一冊である。

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前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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