「嘗て東方に国ありき」8月15日はどう記録されたのか(前川英樹)
安岡章太郎『僕の昭和史』・Ⅰ 講談社
P253
「・・・亀戸まで来ると、車掌が臨時停車するから乗客は全員下車するようにと言いに来た。焼け落ちて屋根もないプラットフォームの電柱にスピーカーが着けてあり、乗客はそのまわりに集まった。
初めて聞く天皇の声は、雑音だらけで聴き取り難かった。それが終戦を告げていることだけはわかったが、まわりの連中はイラ立っていた。突然、僕の背中の方で赤ん坊の泣き声がきこえ、頭の真上から照りつける真夏の太陽が堪らなく暑くなってきた。重大放送は続いていたが、母親は赤ん坊を抱えて電車に乗った。僕も、それにならった。母親は、白いブラウスの胸をひらいて赤ん坊に乳房をふくませたが、乳の出が悪いのか、赤ん坊は泣き続けた。その声は、ガランとした電車の内部に反響して先刻よりもっと大きく聞こえた。
―――もっと泣け、うんと泣け。
僕は、明け放った車窓から吹き込んでくる風に、汗に濡れた首筋や両頬を撫でられるのを感じながら、心の中でさけんでいた。」
安岡章太郎の「僕の昭和史」(三巻)は優れた自己史だ。面白い。しかし、日記ではない。
この文章はいつ書かれたのだろうか。
「―――もっと泣け、うんと泣け」この一行に安岡章太郎の敗戦感覚が、そして作家性が込められていると思う。
『社史にみる太平洋戦争』井上ひさし編 新潮社
P447
[電髪も白襷かけて-資生堂]より
*電髪はパーマネントのこと
「こうして私たちの国は闘いに疲れはてて敗れた。その月十五日正午、『玉音放送』が全国に流された。日本の降伏が国民に知らされたのである。文字通り国を焦土と化した戦争は終わった。
・・・
資生堂は、外地関係の全ての資産と、化学研究所。製薬工場を失った。しかし、幸いにも東京工場と吹田工場は残された。それをよりどころに企業再建を図らなくてはならなかったが、四十歳以下の男子は応召や徴用で去り、ごくわずかしか残っていなかった。
販売組織はまさに壊滅していた。資生堂販売会社のうち・・・東京は、三月の空襲で社屋を焼失して東京工場に移り、支配人以下十一人であった。大阪は、昭和十七年に百二十人いた社員が、支配人以下五人になっていた。」
「社史に見る太平洋戦争」は34団体の企業団体の戦争体験の記録である。マスメディアでは、NHK、読売新聞、毎日新聞、信濃毎日新聞など。これは、ここまで書き写してきた作家たちの記録とは違い所謂「社史」である。企業や団体、学校などの戦争体験は、その法人としての記録編纂の意図とは別に読み解かれるべき意味が込められているはずだ。
馬場マコト『戦争と広告』 白水社
P200
「放送を聞き終わると、山名文夫は「兵隊と同じように武装解除だな、われわれも」とぽつりと言った。ついこの前まで毎日続いた飛行機の爆音が、ぷっつりと消えていた。嘘のようにしんとして、青空だけが広がっていた。
その夜成城の自宅に帰ると、山名は防空壕にしまっておいた、昔描きためた装画集と亀倉雄策からもらったジョニ赤を取りだした。山名は泣きながらそのウィスキーを喉に流し込んだ。わずかな量なのに、長い間忘れていた豊饒の香りとうまさが、山名を一気に甘美な酔いの世界へ導いてくれた。」
多くの関係者への取材から構成されたこの本は、戦時下、広告に関わった人々の生き方を描いている。馬場マコトの仕事は、アートと政治の関係を考えるために一読に値する。ただし、「その日」の記録ではない。馬場の山名への気持ちが些か感傷的な表現になっているようだ。
コメント
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