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20129/5

9・5【メディアの<鎖>化を巡って考えた―それぞれのメディアは自らに何を問うのか―】前川英樹

 

 

このところ「あやブロ」活発だ。
「テレビは死んだか?」論争に続いて、「あやブロ」は結構良い“場”として機能しているようだ。何よりだ。今回のやり取りの底流にあるのは<テレビと時間>を巡る会話/議論があるのだが、そこまで遡るのはちょっと大変だから、うんと縮めてこのほんの数回のポストについて、前回 書き残したことをピックアップしておこう。議論が先に進むと、ついつい忘れてしまうことになる。

まず、【「ただの現在」としてのテレビ または メディアと時間について ①,②】のことである。
北原さん、「あやブロ」に注目して頂いた上に、投稿もしてくださって感謝。
①については、その渦中にいた一人として興味深く読んだ。その時の立ち位置の違いで、「お前はただの現在に過ぎない」の読み方も微妙に違うということを、改めて感じた。これは、さらにずっと若い世代の志村さんや河尻さんの読み方の違いと比べると、さらにいろいろ思うことがあって、例えば、河尻さんは「僕らはただの“ナウ”に過ぎない?」(2011.2.10) という風に今のメディア(あるいはいまメディアに関わる人々)を読み解こうとしている。そういう、ぼくのように同時進行としてしか読めない目線とは違う目線に出遭うことも、この「あやブロ」での発見だ。

「お前はただの現在に過ぎない」が文庫版として再刊されたときに思ったことは、TBSメディア総研HP「メディアノート・Maekawa Memo」に掲載している。是非、ご一読頂きたい。
■No.108(2008.10.15) 記録の意味-「お前はただの現在に過ぎない」文庫版再刊について
http://www.tbs.co.jp/mri/media/media081015.html
■No.109(11.1)私的解読・・・「存在論的・テレビ的」]続・「お前はただの現在に過ぎない」文庫版について
http://www.tbs.co.jp/mri/media/media081101.html

尚、「お前はただの現在に過ぎない」という言葉はトロツキーのものだが、出典はアイザック・ドイッチャー編「永久革命の時代 トロツキー・アンソロジー」(日本語版 山西英一訳 河出書房1968年)で、ドイッチャー著「武装せる預言者」が原典とされている。

 ②の地デジについても、ぼくにとっては忘れ難い仕事で、つまり、この業界の最後の10年は地デジとともに過ごしたのだが、今回の北原さんポストを読みながら、北原さんとはテレビの入り口も出口もご縁があると思ったのだった。ぼくと地デジの関係については(既に北原さんは眼を通されているかもしれないが)、月刊民放5月号「“地デジ”とはソーシャルネットワークの時代に『テレビに何が可能か』と問うことである」、及び放送ジャーナルN0.235「地デジ化とは何だったのか」(インタビュー記事)に書いた。
地上放送のデジタル化論議の最初から関わって来て、地デジ「不可避論」など書いてしまった者として、その仕上げの最後のところを落ち穂拾いみたいなことまで含めて北原さん達が苦労されたことに本当に敬意を表したい。お疲れさまでした。
下の写真は、現在民放連が地デジヒストリーを編纂していて、そこに資料として提供した写真。

民放連・アメリカデジタル放送事情調査団(NAB訪問 1998.3.5)
右から 太田(TX) 清水(TBS) 加藤(NTV)) 金子(ANB) 北川団長(デジ特委員長) 前川(TBS) 上瀬(CX) 町田(民放連)

1セグテレビ技術特許交渉合意記者発表 (2004.3.24)
右から 渡辺(NHK) 関(CX) 前川(TBS) 榎並(NHK)  Mr. FUTA(MPEG LA)  通訳

 

「お前はただの現在に過ぎない」、というか60~70年代テレビ論については、「あやブロ」でもいろんな人が触れていて、それだけで大事な論点になるのだが、それを地下水脈としつつ、今の焦点はメディアと<鎖>である。
境さんの【メディアと国家にソーシャルが何をするのか?】 は、ぼくのポストの直後にアップされた。「あやブロ」の議論は、ちょっとしたタイミングで論点が噛み合ったりずれたりするのが面白い。
例えば、志村さんが「想像の共同体」と表現したことを受けつつ、境さんはこういう。「『おれたちひとつの国家に属する国民だよね』という認識を持つにあたってマスメディアの役割は大きかったはずです。『日本語』が体系的に固まったのは、夏目漱石が朝日新聞に連載していた小説と、NHKのアナウンサーによるものです。マスメディアの“マス”のサイズは、そのメディアが属する“国家”を超えることはありません。」
これって、ほとんどベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行」(増補版 NTT出版 1997)で言っていることをとても分かりや易く解説しているのと同じだ。アンダーソンは「出版物を読みまた書くこと、これによって、すでに述べたように、想像の共同体は均質で空虚な時間の中を漂っていくことが可能になったのだった。」(P192)と書いているのだから。
したがって、「ソーシャルネットワークは、ジョン・レノンという“現実(を)見てない人”が唄っていたたわ言を実現してくれるかもしれません。『想像してごらん、国がない状態を・・・夢想家と言うかもしれないけど、ぼくだけじゃないんだよ』」という境さんの指摘は、マスとソーシャルの関係を際立たせている。そして、ジョン・レノンのそれが、ただのたわ言でないことを恐れた人(国境がなくては困ると考える人)が彼の命を奪ったのではないだろうか(ついでに、先日LENNON LEGENDというCDを聞いた話を“せんぱい日記”に書いたが、これも投稿のタイミングのずれで、境さんとすれ違っている)。
そして、境さんはこう続ける。「でも一方で、そんなカッコいい側面とは別に、新たな恐ろしさも生まれつつあります。」と。つまりソーシャルの<鎖>化のことだ。「マスメディアは、“国家”という近代に必要だった秩序をサポートしてきました。立派なもんです!ご苦労様です!ではソーシャルネットワークは何を支えるのでしょう。TwitterやFacebookは、あるいはLINEは、何か新しい秩序を支えてくれるのでしょうか。」
アラブの春はソーシャルの力が大きく働いた。しかし、例えば中国では愛国無罪がネット上に氾濫しているという。他の国でも事情は似た様なものだろう。高橋源一郎さんのツィッタ―・アカウントには、「非国民」、「国賊」などなどの言葉が躍っていたという話も“せんぱい日記”に書いたところだ。

だが、自分で「ソーシャルは、常に<鎖>を解きほどくように機能するか」と問いかけておいて、こういうのも変だが、では「ソーシャルもマスも大差はないのか」と言うと、そんなことはない。少なくとも、本来的にソーシャルは国境を超えることが出来る。国民国家という幅を超えたコミュニケーションを可能にする。そうした可能性に賭けるところにそのメディアの存在理由が生れる。

「破壊したり秩序を作ったりするのは、結局は人間でした」とは、まさにそのとおりなのだが、そうフラットに言ってしまうだけではなく、どこに人間とメディアとの関係を見るかということを考えてはどうか、それがぼくたちの仕事だろう。
志村さんも前回のポスト【国家と風土、個人、メディアの立ち位置 – 前川センパイ、河尻さん、境さんへのあやとり -】で「それは、つまり、ソーシャルメディアの仕組みではなく、使う人の意識の問題だと思う。」と書いているが、その「意識」と国家との関係、そして「意識」とメディアの関係を考えるところに、いまぼくたちは来てしまった。ソーシャル・メディアが固有の時間を持つようになり、マスメディアも含めて時間の多層性が形成されることで、ソーシャル・メディアもこうした普遍的なあるいは本質的な問いを自らに問う地点に押し出されて来たのだ。

ソーシャル“メディア”を「考える」】で、稲井君は「『考える』ことは『想像する』ことでもあります。世界中の人々がソーシャル投稿をすればするほど、デジタルメディア経由で『知り続ける』魅力に憑かれてしまう人々もきっと増えていくのでしょう。 そのときに怖いのは、デジタル情報フラッド(洪水)に知らず知らずのうちに呑みこまれ、本人が気づかぬまま、『思考力』『想像力』が徐々に失われていくことです。」と書いている。傾向的にそうであろうということに同意しつつ、しかし僕たちはそういう時代から逃れられないのであり、そうであればこそ、ソーシャル・メディアが自分の存在理由を自ら問うことを迫り、そこ(ソーシャル・メディアが作る情報空間)に思考力と想像力を生まれることを求めなければならないし、そのような問いを問うことこそ僕や稲井君が出来ることの一つであろう(「あやブロ」でお互いにこんなことを書いているように)。それは「使う人の意識の問題」を、どのように次の論点として設定するかということでもあるだろう。

稲井君の問題意識を逆側からアプローチしている山脇クンは、【スマホとテレビはつなげられるのか? 】で、「私には、テレビはすでにインターネットに飲み込まれているように見える。それが見えていないのは、もしかするとテレビ関係者だけではないかとさえ感じる。ここまで使った『スマホ』という言葉を『インターネット』と置き換えてみるとよくわかる。インターネットはテレビより『こっち側』にあるサービスなのだ。」「21世紀のテレビは『私』を無視して成り立つものではないことはわかっている。『私』を無視しない『こっち側』のテレビをつくることはできるのか?少しでもヒントが残せるといいのですが・・・www」と書いている。
ここでも、「飲み込まれているように見える」にもかかわらず、マスとソーシャル(スマホ)は「代替されない」関係であり、そこから<こっち側のテレビ>という逆転の発想に可能性を求めようという意識が働いているようだ。そこに、[知る×考える]という磁場のようなものが生れうると期待したいのだ。

ソーシャル・メディアは、テレビにとっての「お前はただの現在に過ぎない」というような、あるいは「テレビジョンは時間である」とか「テレビに何が可能か」といったような、自らの存在についてその時代との関わりや、あるいは芸術や権力との向き合いについて、存在論的問いを問うことが出来るだろうか。テレビジョンに向けられたそれらの問いは、結局のところ虚しく霧消したかに思われるが、それでもテレビジョンの可能性は成立するとぼくは思っている。では、ソーシャル・メディアの可能性とは何だろうか・・・。

ここに一冊の本がある。
「非常時のことば 震災の後で」(高橋源一郎 朝日新聞出版)。

日常でない状況を前にして、ひとはそれをどういうことばで表現できるかということが書いてある。原発事故についての加藤典洋、パレスチナ難民キャンプの虐殺現場に立つジャン・ジュネ、水俣病の「地獄」を記録する石牟礼道子、3月11日の後にデビュー作「神様」をリメイクして「神様 2011」という小説を書いた川上弘美。「ことばを失う」状況で、人はことばで何をどう表現できるのかを問いかける本だ。とても良い本だ。
そのようなことをマスでもソーシャルでもメディアは引き受けられるだろうか。鎖になるもならないも「意識」の問題であるとして、また知るだけでなく考えることが大事であるとして、いまぼくたちが背負わなければならないのは、ことばに何が可能かと同じように、ぼくたちが関わっているメディアで何が可能かということではなかろうか。

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

 

 

 

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