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20128/31

8・31【メディアと国家にソーシャルが何をするのか?】境 治

 

 

先週、自分のブログに「ソーシャルメディアはぼくらとオリンピックを変えようとしている(のかもね)」と題したエントリーを書いたら、すごく近いことを志村一隆さんがあやとりブログで書いてらして、一方ぼくのブログに前川せんぱいがコメントをくださり、さらにそれを受けて志村さんがまたあやブロで書いたりして、2つのブログとそのコメント欄も含めて言論があやとりを重ねていきました。さすがインターネットだ、ハイパーリンクってすごい。いろんな言説を巻き込んで議論が進むような、逆に混とんとするような。その混とんを整理するのでなくさらにかき混ぜるべく、結論も見出せてないままあやとりの糸をもつれさせてみようと書いています。

志村さんったら、日本が近隣諸国と2つの島のことで揉めてみんながナーバスになっているさなかに“「国家」という「想像の共同体」”だなんてハラハラすることを書いてらっしゃいましたが、メディア論を追求する際、この視点はすごく重要だと思います。かく言うぼくも自分のブログで“戦後の日本はテレビという不思議な箱の中にある不思議の国だったのではないだろうか”などと書いていて、志村さんとほとんど似たことを言ってしまっていました。
「国家」というものをぼくたちが意識するためには、マスメディアが必要だったのだと思います。想像するしかないですが、江戸時代の日本人はどれくらい「日本という国家」を意識していたのか。あまり意識する必要がなかったのだと思います。ひとつの言語とひとつの文化を共有するひとつの民族が、憲法に基づいて元首を擁するひとつの「国家」を持っている状態、というのはこの100年とか200年とかの間に、日本でも世界でも起こってきたのですよね。「国家」という概念は意外と歴史の浅いものではないでしょうか。そして「おれたちひとつの国家に属する国民だよね」という認識を持つにあたってマスメディアの役割は大きかったはずです。「日本語」が体系的に固まったのは、夏目漱石が朝日新聞に連載していた小説と、NHKのアナウンサーによるものです。
マスメディアの“マス”のサイズは、そのメディアが属する“国家”を超えることはありません。これは当然なのですが、あらためて考えると不思議だなと思います。いま話題騒然の2つの島について、あちらの国のメディアはどう伝えているでしょう、とこちらの国のメディアは紹介します。あちらとこちらの両方に同じ文脈と同じ言葉で伝えるメディアは存在しないのです。もう一度書きますけど、当たり前だけど不思議ではないですか?
NHKの視聴者数は絶対に1億3千万人を超えることはありません。マスメディアの、とくに放送の長所とは一度に大勢の人びとに同時に情報発信できること、なのに、1億3千万人どまりなのです、実は。なんというか、これはもったいない気もします。
インターネットがこの限界を変えようとしています。いやすでに限界は乗り越えられています。ぼくたちには言語の壁があるので感じにくいですが、ネットの世界ではもはや国境が一部で崩されています。YouTubeで話題になった映像は世界中で視聴されます。
そしてこの軽快さをソーシャルメディアが増幅しています。TwitterやFacebookを通じて、ある話題が世界中に拡散していくこともあります。何より重要だと思うのが、Facebookのユーザーは9億人です。ひとつの国の人口を超えたメディアが存在するのです。放送や新聞ではありえなかったことが、ソーシャルメディアでは起こったのです。
もっとも、ここでマスメディアの対象者数とFacebookの9億人を並列に見ても仕方ないだろうという指摘も出てくるでしょう。Facebookはメディアなの?インフラでしょ?(ソーシャルメディアではなくソーシャルネットワークなのだという河尻さんの論は、この点でも納得してしまいます。)さてマスメディアが「国家」という「想像の共同体」の形成に手を貸したのだとしたら、ソーシャルメディア、いやソーシャルネットワークはそこに何をしようとしているのでしょう。「国家」の解体?まあ、そこまで言わないまでも、志村さんの言う“コスモポリタン”意識の醸成はもたらしているはずです。国家というものを、少し落ち着いてとらえる、そんな視点をくれるのだと思います。
テレビというシステムが、オリンピックを日本の隅々まで伝えることでぼくたちの熱きナショナリストの血潮を沸騰させたのに対し、ソーシャルは内村航平個人へのシンパシーを与えてくれ、日本という同じ国家の代表というより、自分の“お友達”のひとりを応援するような気分にしてくれる。その分、“日本”という括りにはちょっと冷めた気持ちを芽生えさせてくれる。
ソーシャルネットワークは、ジョン・レノンという“現実見てない人”が唄っていたたわ言を実現してくれるかもしれません。「想像してごらん、国がない状態を・・・夢想家と言うかもしれないけど、ぼくだけじゃないんだよ」でも一方で、そんなカッコいい側面とは別に、新たな恐ろしさも生まれつつあります。
前川せんぱいはぼくのブログへのコメントに「ソーシャルメディアは、常にあるいは必ず<鎖>をほどくように機能するのでしょうか。ひょっとしたら誰が意図するということではなく、結果として<鎖>になってしまうことはないのでしょうか?」と書きました。ぼくはすでに<鎖>を感じています。Twitterでは、うかつなことは書かないように気をつけています。下手なことを書いて襲撃を受けた人を何人も見てきたので、自分はそうなりたくないのです。ブログでうっかり、話題の人についてネガティブなことを書いてしまったら普段の何十倍もアクセス数があってハラハラすることもあります。幸いなことに、そうした来訪はあくまで一時的で、イナゴの大群のように去ってしまうと静寂がやって来ます。ソーシャルネットワーク上では、ひとたび感情的になるとナウシカの王蟲(オウム)のように人びとが暴走することがあるのです。
マスメディアは、“国家”という近代に必要だった秩序をサポートしてきました。立派なもんです!ご苦労様です!ではソーシャルネットワークは何を支えるのでしょう。TwitterやFacebookは、あるいはLINEは、何か新しい秩序を支えてくれるのでしょうか。それとも王蟲のように、次の安定した生態系につなぐための破壊者なのか。
いや、ちがうか。マスメディアも、ソーシャルネットワークも、ただのツールで意志を持つわけではないですよね。破壊したり秩序を作ったりするのは、結局は人間でした。人類はソーシャルネットワークで何を作れるのでしょうか?ジョン・レノンの夢想を実現するのか?次から次へと王蟲の暴走が起こる無秩序な空間ができるだけ?

と、ここまで書いて氏家さんに送ろうとしたら、前川せんぱいの壮大なスケールのポストが・・・。せんぱいにエネルギーで負けてしまっていると思い知りつつ、おずおずと投稿させていただきました・・・。

 

境 治 プロフィール
フリーランスのコピーライターとして長年活動したのち、なぜか映像製作会社ロボット経営企画室長となり、いまは広告代理店ビデオプロモーション企画推進部長。2011年7月に『テレビは生き残れるのか』を出版。
ブログ「クリエイティブビジネス論」:www.sakaiosamu.com
ツイッターアカウント:@sakaiosamu
メールアドレス:sakaiosamu62@gmail.com

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