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20128/30

8・30【「国家・メディア・<鎖>」についての論点整理/未整理とあれこれ思ったこと】前川英樹

 

 

 

「あやブロ」の議論のテンポが速くなっているのとこちらの反射神経が鈍くなっているのと、それに加えて残暑疲れもあるのだろう、レスが遅くなって申し訳ない。などといっている暇はない。

境さんのブログ「クリエイティブビジネス論~焼け跡に光を~」の「ソーシャルメディアは、ぼくらとオリンピックの関係を変えようとしている(のかもね)」 (8/20)は、今回のオリンピックとメディアの関係について的確にレポートしている。これは、その直前の「あやブロ」の志村さんポスト【ソーシャル×五輪=コスモポリタン-4年後のリオデジャネイロ五輪を考えてみる- 】と共鳴しあって、「ソーシャルメディアによって、何がいま進行しているのか」をとても説得的に語っている。
志村さんポストのことは、シェアーした時にこうコメントした。
「さらさら読めてとても良いポストだ。『だから”テレビに何が可能か”という問いがやはり成立する』と、実はそう書いてある。そこにこだわりたい。そして、もう一つ。『五輪は、国別という仕組みを残すことで、コスモポリタン化しているプロリーグと差別化している。それは、我々がリアルに持つ地元意識と人間誰もが同じなんだというコスモポリタン的な感覚、双方を意識させてくれるようで、とても面白い。』と言うところが、メディア論を離れた肝だ。ナショナリズムの陥穽と紙一重のところに私たちはいる。」と。
これについては、また後で触れるだろう。

さて、境さんはこう書いている。
「オリンピックとは国家の祭典だ。一方、テレビは国家と何らかの関わりを持たざるをえない存在だ。(少なくとも電波の割当は政府が決めるものだ)オリンピックという国家を代表するスポーツ選手たちの競技を、テレビという国家が許認可を出すメディア事業が、その国家に属する人びと(=国民)に伝える、盛り上げる。そういう構造だった。」「そこにソーシャルメディアが加わることで、選手・テレビ・国民それぞれに対し国家が(意図せずとも)めぐらせていた鎖のようなものがだらだらと、ずるずると、ほどけていってしまう。そうならざるをえない。”そうならざるをえない変化”をもたらすのがソーシャルメディアなのだが、オリンピックではまさにそうなんじゃないかと思う。」

ソーシャルメディア、つまりマスメディアではない<多/無中心型>の情報経路が<中心から周縁へ>という情報構造を変えつつあるということを語っている。かつて「インターネットの自由」と言われていたことが、とても具体的に進行していることが良く分かる。
その上で、ぼくは敢えてこう書いた。
「ソーシャルメディアは、常にあるいは必ず<鎖>をほどくように機能するのでしょうか。ひょっとしたら誰が意図するということではなく、結果として<鎖>になってしまうことはないのでしょうか?」これから私たちが直面するのは、そういうことかもしれないと思うのです(「かもしれない」がダブっていたので一つ省略)。

何故そう書いたか。
オリンピック・メダリストパレードの50万人と竹島/尖閣問題を突き合わせたときに、ちょっと怖いものを感じたのだった。それが、「ナショナリズムの陥穽と紙一重のところに私たちはいる」ということだ。ソーシャルは国家が(あるいは国家とメディアが共犯して)作りだした<鎖>を解きほどく力を持つ。だが、ある時ソーシャルを通して人々は自らを呪縛し、思わぬ地点にまで人々を連れ出してしまう・・・そういうこともありうべし、と思うのだ。それは、ソーシャル・メディアを否定的に語ることではない。ソーシャル・メディアもまたメディアの持つ構造的なあるいは本質的な問題に漸く向き合うところまできたということだ。ほんの数年前まで、インターネットがテレビを飲み込む、などの意見が喧伝されたが、いまやメディアの問題はそういうところにはない。それは明らかだ。では何が問題なのか。夫々のメディアが自らに「自分たちは何者か、そして何が可能か」と問い返すところから始めなければならない、それが今の<メディア的テーマ>なのだ。

境さんも、志村さんも、ぼくの素朴だが些か乱暴な問いかけに優れた視点を提示してくれた。
境さんは「ソーシャルメディアが新たな<鎖>になるのは、ありそうです。すでにTwitterにはある種の鎖が一部でまとわりつきはじめている気がします。誰かの明確な意図でさえない鎖はかえってやっかいなのかもしれません・・・」とコメントしていて、直感的に問題のありかを嗅ぎ取っている。
志村さんは、それを踏まえて、【国家と風土、個人、メディアの立ち位置 – 前川センパイ、河尻さん、境さんへのあやとり -】でこういう。
「僕の答えは『イエス、<鎖>は常に現れる』だ。『竹島』や、正しさを『政府発表」』求めた大震災後のツイッター空間のように、『国家』を『お上』として奉る意識の人ばかりではないか。高速道路でのちょっとした減速が渋滞になるように、あるいは少しの気圧の差で渦巻きが形成されるように、リーダーがいなくても集団の意志、方向性は決まって行く。国家が放った鎖が解けても、自縛的な鎖が現れるのではないか。それは、つまり、ソーシャルメディアの仕組みではなく、使う人の意識の問題だと思う。」
そう・・・だけど、その「意識」はどのように形成されるのか、それが次の問題だ(ここから、稲井クンの「知ると考える」論に跳ぶこともできるが、それはまた別の機会に)。
さて、志村さんは河尻さんのコメントを引きつつ更にこういう。
「ソーシャルメディアが意志のない脊髄反射つぶやきで埋まるなら、それはメディアでなくネットワークと言った方がいいだろう。(河尻さんの言葉、1年間気になっていた)」と。

ここで河尻さんに質問。
「ソーシャルはメディアではなくネットワーク」という意味は、そうなの?1年前にぼくがその言葉を聞いて刺戟されたのは、ソーシャルがリゾーム型の形態として社会の一部(外部的ではなく内部的)に機能しているという意味だと思ったのだけど、それってぼくの理解違いだろうか?

ではその河尻さんはどう言っているのか。
「著者(志村さんのこと・・・前川註)が指摘する『(ソーシャル化による)マスメディアと個人メディアの時間の多層性』は、当連載で私がたびたび言及している『ストーリーテリング』ともシンクロするテーマだと思いますが、それは今多くのクリエイターが直面している課題でもあります。より実践的には『その多層性をいかにデザイン・編集(キュレーション)するか?』『インタラクティブでダイナミックな関係性をいかにメディア的に調停(表現)するか?』ということでしょう。infograficsもそういった機能を持つ表現形態とも解釈できます。」
「調停」?これまた議論になりそうなタームだ。調停=表現ねぇ・・・。
とはいえ、ここでは「編集(キュレーション)」あるいは「調停・表現」というのがキーワードだろう。これは微妙に志村さんのいう「意識」とは違う行為が意味されているようだ。つまり、そこに「専門性」とか「職業」とかが想定されるかどうかということでもある。だが、志村さんはそこは余りこだわらずにこう続ける。
「そして、河尻さんのいうクリエイターの課題は、その『調停』技法の磨き方だけでなく、ソーシャルメディアがネットワークとして爆発的な情報量を持っている現実に対し、優れた『表現』センスが、量に埋没してしまう恐れがあり、それが前川センパイのいう「結果としての<鎖>」の出現につながるのではないかという点であろう。」と志村さんはいう。
ここは概ね納得。ま、そういうことだ。
ただし、付け加えるならば「優れた表現センス」そのものが<鎖>に加担することもある」ということをおさえておくべきだろう。それが「表現」というものの危うさだ。正確に言えばその<危うさ>とどう向き合うか、ということだ。例えば、表現を一つのジャンルとしての広告と置きかえると分かりやすいかもしれない。

少し長くなった。先へ行こう。
志村さんの感性と論理は次のフレーズに行き着く。
「しかし、少なくとも日本という風土と地元のコミュニティ(または家族)と国家は別なものだと敢えて考える思考実験を常にしておく必要があるのではないか。」「その思考を提示し続けられるのが、メディアの役割であろう。」
これは、志村さんポストの前段に書き込まれた「そんなことを考えると、国家は自分のなかに元々あるものなのか?という疑問が湧いてくる。」というフレーズを受けたものだ。もちろん、そんなものはもともと「ない」のだ。
では風土なのか。地元コミュニティなのか。
そう多くない海外出張から戻った時に感じる、日本の少し湿った空気や、穏やかな表情の人々や、そこに流れていく時間が僕も好きだ。その好きだという感情の中には、失われつつあるもの、あるいは失われてしまったものへの愛おしさが混ざっていないだろうか。ロマン主義的なものが。
かつて日本浪漫派が近代ナショナリズムとは違うアプローチで日本のあり方に迫ろうとしたのは、例えば風土のような概念、というよりシンパシ―(抒情的なるもの)ではなかったか。志村さんの意図とは別に、コミュニティーや風土という措定の仕方はさまざまなリアクションが派生する。だから、国家とは違う存在条件を人は見つけるべきだという意味では全く同感なのだが、「それがメディアの役割だ」と言う場合の「それ」が何なのか、結構デリケートなところだ。

「巨大戦艦大和」(NHK)を見ていて、「人の命を国家によって一色に塗られてはたまらない」と激しく思ったのだった。そして、今朝(8.30.)の朝日新聞の論壇で、高橋源一郎がこういっている。「国家と国民とは同じ声を持つ必要はないし、そんな義務もない。誰でも『国民』である前に『人間』なのだ。」と。近代は、例えば神からも共同体からも人を解放してしまった。人は孤独で裸にされてしまった。にも拘わらず国家は人を拘束しようとする。その意味で、国家は近代の鬼っ子なのかもしれない。

なんだかネガティブなリアクションになってしまっただろうか。
だけど、くり返すけれど、志村さんも境さんも凄く大事なところをちゃんと見ていると思うのだ。些か牽強付会にまとめれば、<ロンドン・オリンピックとソーシャル・メディア>という論点をまともに考えていくことで、日本の近代が抱えてしまって未だ出口の見えない問題が、図らずもあぶり出されてしまった、と思うのだ。

* 日本浪漫派については、橋川文三の「日本浪漫派批判序説」という優れた論考がある。

稲井ポスト【ソーシャル“メディア”を「考える」】に一言・・・稲井クンゴメン、「ついで」みたいになってしまって。

「『考える』ことは『想像する』ことでもあります。世界中の人々がソーシャル投稿をすればするほど、デジタルメディア経由で『知り続ける』魅力に憑かれてしまう人々もきっと増えていくのでしょう。
そのときに怖いのは、デジタル情報フラッド(洪水)に知らず知らずのうちに呑みこまれ、本人が気づかぬまま、『思考力』『想像力』が徐々に失われていくことです。」「それだけに『知る』とのバランスをとり『考える』力を磨くこと、リアルな人間関係構築にも手を抜かないこと。この二つがソーシャル時代に求められている情報リテラシーとしてますます重要になってきています。」
デジタルの時代に「考える」とはどういうことか、ということにつながる指摘だろう。そして、多分これは「字を書く」ことと考えることとも関係する。書くという行為がますます退化することが、特に表意文字の文化でどういう思考力の劣化につながるか、歴史的な問題ではなく、我がこととして恐ろしい。

もう一つ。とあるところでこう書いた(間もなく活字になるはずだ)。
「メディアにおいては、『現場』がαでありωであるといわれる。それはその通りだが、同時にメディアで仕事をするとは、知的であるということだ。もちろん冗談として言うのだが、『いろいろ考えることがあって、現場に行く暇がありません』とでも偶には言った方がいい、という気にならないでもない。」
現場と思考の両方を心得ている稲井くん、どんなものだろう。

そして蛇足。稲井クンポストの写真(ウィキペディアより)、ロダンの「考える人」の像について、かつてこんな話を聞いたか読んだかしたことがある。
「この像のように右の肘を左の膝に置くことはとても不自然だ。やってみれば分かるでしょ。」
確かに、やってみるとちょっと無理がある。ロダンはどうしてこんなポーズをとらせたのだろうと「考えて」しまう。「考えることは難しい」とでも言いたかったのだろうか。

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

 

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