あやぶろ/OLD

テレビの中の人による唯一のテレビ論、メディア論ブログ

© あやぶろ/OLD All rights reserved.

201110/26

須田的「アニメ自問構造」論を読んで、<返歌>を詠もうと思ったが、こっちも「自問」になってしまった - 前川英樹

須田さんの「ジャンルを愛し、ジャンルに逆らう」を読んだ。
ぼくにとっては、ほとんど完璧な解説だ。須田さんは< 解説>として書いたわけではなく、自主的補足だというが、これほどの< 解説>で分からなかったら、もうこのテーマ、素材について触るのを止めたほうがいい。というより、これだけの解説を読んで「なるほど」と分かるということ自体が、出遅れというものだろう。それは、”ジャンル”とぼくの距離の問題だから、ご容赦いただくとしよう。
そのうえで、「あっ、そういうことなんだ」と思ったことをメモしておこう。すでにそれは、「まど・マギ」を離れアニメを超えた話である。須田さんの言葉を借りれば「自問する」あやブロだ。
先回りして言うが、須田さんのアニメ論にぼくはキチンと答えていない。それではせっかくの須田論がもったいない。是非、誰か< あやブロ>でフォローしてほしい。これは< あやブロ>の存在にかかわる大事なことだと思う。よろしくお願いします。

1.少女マンガが注目され始めたのは、少年マンガ週刊誌が100万部を超え、大人向け?込コミックが売れ行きを伸ばし始めた後だった。「大きな瞳に☆」が注目された。女性マンガ家も登場し始めた。これについては、いくつかの論評があるはずだ。日本のジェンダー問題をそこに見ることもできるだろうが、そのことは、ここではいいとしよう。
それはそうだとして、では、なぜ「魔女っこモノ」は少女マンガ固有のものなのだろう。少女マンガが、何かを超えようとして「魔女っこ」を発見したのだろうか。制約の故の飛躍なのだろうか。< オバQ>や< どこでもドア>や< ゲゲゲの鬼太郎>とは違う…はずだ(例が不適切か?)。

2.「怪人二十面相」が稀有な例外かどうかはいざ知らず、日本のいわゆる少年少女文学が、文学の豊饒な一分野であるとは言い難いように思えるのだが、そのことと、少年少女マンガからアニメへという流れ、その拡張と関係があるのかないのか、あるように思えるのだが、どうなのだろう。ぼくたちが子供のころ夢中になって読んだ「十五少年漂流記」や「宝島」、そして「トムソーヤーの冒険」などは、大人たちが読んでも面白かったはずだ。日本でそのような物語が紡がれ語られるということに、日本の少年少女は向き合うことが少なかったのではないだろうか(もちろん、それでは他のアジア諸国の、あるいは非欧米全般の少年少女はどうか、という問いは成立するが)。

3.そのことは、世にいうところの日本文学の< 私小説>性=物語性の希薄さ、と相関するように思えるが、これまた、ほんとうにそうなのか。もし、そうだとすると、「まど・マギ」論は日本近代のあり様という、なかなか壮大にして難解な文脈で読み解かれるべきだということになるが、それは余計なお世話なのだろうか。でも、「ガラパゴス」問題は、やっぱりここと無縁ではいられないと思うのだ。

4.例えば、須田さんは「”ジャンル”の約束事と、その裏切りの微妙なバランス」(という言葉遣いではないが)が、ファンを引きつけるという(「自問する物語」)。そのうえで、「これが、日本のアニメが、子供向けのものとして歴史をスタートさせながら、世界に類例を見ない大人の鑑賞に耐える高度なものになった『基本原理』です」となるのだが、ここは「そもそも、(アニメに限らず)クリエイティブというのはそういうものであって、日本のアニメはその水準にある」と読みとるべきなのだろう。だからこそ、「『ジャンル』というのは、物語が受容される時には、極めて重要な働き&とっかかりですので、その『ジャンル』とどう批評的な関係をとり結ぶか?は、けっこう重要だ、と思っています」ということになり、「『ジャンル』というのは、物語の『国籍』のようなもの、かなと」と続くのだろう。でも、ここはもう少し須田的踏み込みがほしい。例えば、「大人の鑑賞に耐える」ことを批評の基準にしてよいのかという問いは、そこでは成立するのだろうか、など(5,6に続く)。アッ、自問でなくなってしまった。

5.「『形式』を守りながら、それを破って『バリエーション』を楽しむ。この意味において『忠臣蔵』と『五人戦隊』と『魔女っこモノ』は同じ伝統芸能であるといえます」についても、「バリエーションはバリエーションであることを超えて、いつか『形式』を裏切るのではないか」という危うさをどこかで期待してはいないか、ということにつながる。もちろん、それはないのだ。伝統芸とはそういうものである。だが、その「危うさ」こそが、人を表現に駆り立てるように思うのだが、どうなのだろう。「約束事」とは、”ジャンル”の問題か市場の問題か、それともどうでもいい問題か。

6.(この項は、7の前置きで、話の本筋とは関係なく思いついたこと)「伝統芸」とアニメについての相似性を読んで、福田善之の戯曲「真田風雲録」に思い至った。60年安保の後の妙に白けた状況の中で、福田善之は大阪冬の陣・夏の陣の真田幸村と十勇士を素材にして、政治と< 人の生き方=思想>の関係を描いて見せた。その手法は、福田本人が言う通り、講談による歴史の語り口を取り込んでいる。(2や3に関係するのだが)講談や立川文庫は語り物的な江戸庶民的歴史観感覚を、明治以後も相当長期に継承していたのだろう。語り(講談、浪曲)、節(浄瑠璃、新内、越中)、唄(長唄、端唄)など(落語はどう分類されるのか語り、のうちか?)。では、能は?、狂言は?伝統芸にも革命家がいて、約束事を破り新しいジャンル=流派を形成した。そして、新しい約束事が生まれる。話を戻せば、少女マンガにも革命はあったはずだ。

7.ところで、「真田風雲録」が映画化されたとき、豊臣方の優柔不断の政略論に対して”断固闘うべし”と主張する幸村と十勇士の場面で、客はスクリーンに向かって”そうだ、その通り!異議なし!”と叫んだものだった。作品を支持する(=ファンの態度)、とはそういうことだった。東映任侠映画の最後で高倉健や藤純子が圧倒的な敵の組に乗りこむときに、観客から声がかかったのと共通するだろう(そこに、助っ人鶴田浩二が登場すと拍手、ということもある)。
“だから”、客は何を思っているのか、作品は客を離れては成立しない。「まど・マギ」を観る人たちは誰なのか、何を感じ、考えているのか、それも知りたい。
「まさに、ご指摘の通りで、まど☆マギの熱狂的ファンの書架には、まど☆マギマギのブルーレイディスクと、ゴダールのDVD(「ゴダールの映画史」DVDBOX含む)と、フーコーの著作が並んでいます」といわれると、「やっぱりそうだったか」・・・・と思うけど、ね。

< 自問>のつもりが< 質問>になってしまったところもある。
須田さん、ゴメン、< 返歌>になってないや。

繰り返しになるけど、誰かちゃんとフォローしてくださいな。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。

20146/18

そこに、パースペクティブ=展望はあるか?2014年の論点⑤

停滞する民主主義が進化する途 ワールドカップの中継番組の瞬間最大視聴率が50.8%だったそうです。このニュースを見…

20146/18

そこに、パースペクティブ=展望はあるか?2014年の論点④

ストレンジなリアリティー:ガンダムUC ep7を見て考えたこと 『機動戦士ガンダム』は30年以上前に、フォーマット…

20146/17

情報“系”の中のテレビジョン

6月は、いろんなことがある。 会社社会では6月は大半の会社の株主総会の季節だから、4月の年度初め、12月の年末とともに一つの区切りの季節だ…

20146/16

テレビというコミュニティ。あやブロというコミュニティ。

あやとりブログに文章を書くようになってかれこれ二年以上経ちました。2011年に出した『テレビは生き残れるのか』を読んでくださった氏家編集長か…

20146/13

ワンセグ全番組タイムシフト視聴は視聴率を下げるのか検証してみた〜ガラポンTV視聴ログより

リアルタイムの放送をテレビで視聴する人が増えることは良いことです。 言うまでもなくこれは「視聴率が上がる」ことを意味します。 &nb…

ページ上部へ戻る