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20127/23

7・23【<つづく>を撮り損なってNGになったり・・・「テレビ小説」のこと。稲井クンポストで思い出だした往時茫々 閑話休題】前川英樹

 

 

せんぱい日記もそうだが、少し昔話が多くなってきたようだ。乞う、ご容赦。
稲井クンポスト【テレビが「刻んだ」時間】を読んで思い出したことがある。今回はあや取りではなくて、とりとめのない個人的思い出メモになってしまいそうだが、やっぱり書いておこう。

稲井クンポストの最初に「テレビ小説」の話が出てくる。
ポーラ化粧品が昼の12時45分から提供していた「婦人ニュース」の後企画で、12時40分からの20分枠になった半年連続の帯ドラマだ。1968年9月に始まり、1986年9月まで、18年に40企画が制作された。(*)
*    文末一覧表参照
*    第33作からは3カ月単位。
*    1974年9月までは月~土、以後は月~金

「婦人ニュース」は、個性的な(つまり、結構過激な)ネタを大胆に取り上げていて(例えば、成田空港反対闘争やフォークゲリラ、など)、萩元晴彦、大原れいこなど、後にテレビマンユニオンに参加するディレクターたちも担当していた。アナウンサーの来栖琴子さんも骨っぽかった。ニュース部的な「中立性」を大胆に乗り越えていて、早い話が上からも外からも“問題番組”と見られていたに違いない。時代の変わり目という事情とポーラのイメージ戦略との双方の理由からだろう、「婦人ニュース」は終了し、「テレビ小説」が登場する。だから、昼が本放送で翌朝が再放送なのだ。翌朝の再放送はNHKへのカウンター編成という意図があったのだろうか。その頃のTBSならあっても不思議はない。NHKに拮抗することが民放の存在理由であり、それが「最大の放送局より最良の放送局」というTBSの社是の意味だった・・・と少なくともぼくは思っている(今もだ)。

「テレビ小説」は、当初は名前の通りドラマよりはもっと軽くソフトな路線、ドラマ的というより語り的なものを志向したのではないかと思われる。その頃、午後の1時台に15分枠のフィルム製作のテレビ映画が2~3本編成されていたが、昼間に局のスタジオ制作のドラマはなかった。ドラマ制作者たちから見れば、昼のスタジオ・ドラマというのはB級の仕事に見えただろう。新人女優の抜擢という路線も、第2作「パンとあこがれ」の宇津宮雅代からだった。ディレクターも若手が起用されることが多く、技術スタッフも各セクションのチーフ以外は関連会社の若手スタッフが起用されることが多かった。

その「テレビ小説」のかなり多くの企画にぼくは参加している(*)。好きな枠だった。
*    7企画でディレクター 内1企画(「おりん」1979.10~)はプロデューサー兼。
*    基本はディレクター4人のローテーションで、途中から新人がデビューすることがある。
*    「アンラコロの歌」(1972.3.~)では、全27週・162回の内、8週分・48回のディレクター。どうしてこんなに担当回数が多かったかといえば、スタート早々ディレクターの一人が病気でダウン、もう一人がプロデューサーとバッティングして降板。結局一番若かったぼくがやるしかなくなった。途中からは3週に一回は撮っていた。(アンラコロはアイヌ語で黒百合のことだったと思う)
*    4人ディレクターだと、4週で①決定稿作成、セット等打合せ、②事前の仕込み(ナレーション・音楽、等)、コンテ作成、③リハーサル(月、火、金)と本番(水、木、土)、④編集とプレビュー(試写)そして次回スタンバイ、というサイクルになるのだが、これを3週で消化するとなると全く余裕がなくなる。編集しながら次の回の段取り作業に入っているのだ。OTが200Hというのもこの頃だっただろうか。
*    収録も、当時は午前2時くらいまでかかることがままあった。翌朝は10時開始だから、役者はもちろん、事前作業の負担が多い美術スタッフは特に大変だった。みんな若かった。

予算も限られ、最も小さなスタジオで収録された。ぎりぎりにセットを飾るため、カメラポジションが厳しくて引きじりがなく、カメラマンはワイドレンズの使い方を上達させられた。カット編集は出来ず、ブロック(1ないしは数シーンをまとめて録画する)単位で編集することになっていた。だから、あるシーンの終わりの方でNGが出ると、そのシーンの最初から撮り直すことになる。極端な例では、<つづく>という文字を書いたボード(フリップ)を新人カメラマンが撮りそこなって、そのシーンがNGということもあった。それでも何故か「ヨシ、もう一回みんなで行こうぜ」みたいな雰囲気が強かった。ナレーション、音楽、効果音も事前の仕込みをして、本番で同時に入れることになっていた(音のポストプロダクションがない)。だから、音楽の尺(長さ)が合わず、現場で効果さんが6m/mテープを小節単位で編集するという曲芸みたいなことを茶飯事としてやっていた。瞬間的に幾つものQを出すので、ディレクターの運動神経が試されている感もあった。つまり、極めて<生的>制作手法だった。“だから”面白かった。少なくとも、テレビドラマの、というかテレビのイロハを全部体験することが出来た。これは、テレビ表現論の基底にある時間性につながるところだ。

そうしたきつい条件の仕事だったが、作家というものはどんどんいろんな話を書いてくる。半時代劇(幕末も含めて昭和/戦後に至る時代のどこか)の女性の半生記モノだから(*)、劇的要素は欠かせない。関東大震災や戦時下の空襲はほとんど毎度だが、北海道の大平原の吹雪の中で馬が次々と倒れていくなどというシーンもあった。小さなスタジオ、限られた予算、ポストプロの制約の中でどうやってやろうかというのが演出の見せ所だった。自分の担当回で「上手くいった!」と今でも覚えているのは、甲子園の高校野球の決勝戦のシーンだった。どうやったかって?文字にすれば何の面白さも伝わるまい。ライブラリーで見て頂きたいところだ。第一次世界大戦勃発というナレーションを、新聞記事でもニュースフィルムでもなく表現するにはどうしたらいいかと知恵を絞ったこともあった。これも割といい出来だったと思う。
*    第32作からは現代劇

「テレビ小説」全体を通していえることは、担当者たちはB級だろうがなんだろうが面白がって仕事をしていた。むしろ力が入り過ぎるくらいで、結局「テレビ小説」は“ちゃんとしたテレビドラマ”にどんどんなって行ってしまった。ぼくの感じでいえば、100メートルのスピートでマラソンを走り切るように2クール(26週)を駆け抜けたように思う。終わった時の達成感は何とも云えなかった。

稲井クンポストを読み始めて、次から次へと思い出したのはそういうことだ。個人的な懐旧談で何の生産性もない。テレビの原点的なものはそこにあったが、いまさらそれが復活することはない。ただ、現場を離れて30年経つが、テレビについての身体的な記憶はそこにある。そのことを書いておきたかった。

そんなことを思いつつ読んでいたら、「電子画面からの記憶は定着しにくい」というフレーズにぶつかった。ここでまた話はテレビ小説に関係する。
どのドラマでもそうだが、テレビ番組である以上放送時間枠があり、それを変えることは出来ない。ドラマの場合、リハーサルに入ってから、どの程度長いか(短いということはまずない)を判断し(ここでタイムキーパーの役割は大きい)、撮る前にカットするか、編集段階で切るか、等の判断が必要になる。テレビ小説のように枠時間が短く、ブロック編集しかできず、音響も既に入ってしまっている番組は、編集段階で時間を調整する範囲は著しく制限されている(ほんの数秒)。したがって、リハーサルで手を入れる(この場合は、まだ余裕がある)か、スタジオに入ってから「ここからここまでカットします」ということになる。後者の場合が大変だ。もちろん、スタッフ全員に関係するのだが、何と言っても厳しいのは役者で、急遽ある部分の台詞を省略し、芝居の変更を求められるのだ。

で、ある時ベテランの俳優に「台詞カットって、こっちは言ってしまいますけど、役者ってどうしてるんですか」と聞いたことがある。その答えは、「人にもよりますけど、私の場合は台詞と台本のページがシンクロしてるんです。だから、何処から何処までカットといわれると、コトバの記憶というより、そのページのイメージとして、アッここからここまでの何行が飛ぶんだな、という意識ですね」ということだった。「だから、ページをまたぐ台詞カットはやり難い。だって頭の中でページをめくらなきゃならないから」とも言っていた。ホントかな?とも思ったが、まじめにそう言っていた。
ということは(と、ここで稲井クンポストに戻るのだが)、脚本とか台本の電子化は劇の世界には向いてないのかもしれない。もっとも、この頃のテレビドラマは、シーンを通して撮ることもなく、ほとんどカット撮りだから関係ないのだろうか。
ただ、役者とは究極のアナログ媒体、演技とは究極のアナログ表現ではなかろうか。

・・・などなど。

最後の最後に少しだけあやを取っておこう。
稲井クンは「しかしですよ、『いき』な視点の提示 があるか、新たな試みや革新性 があるか、品格や多様な面白さを感じさせる か、そのような意欲的な番組に出会うたびに「大丈夫だ、テレビはまだまだ行けるぜ」と私は握りこぶしを作っています。再び「時の鐘」になることも可能ではないかと~」と書いている。
一方、その前の【メディアと時間についての断章と最近のいくつかのポストについて一言】 で、ぼくは「(『テレビは何を伝えてきたか』に触れつつ)“あの頃”テレビはほんとにいい時代だったということだ。それは、魅惑的な、そしてある魔力を持った世界だった。テレビで仕事をすることは時代と並走することだった。どれほど自覚されていたかどうかはともかく、それは『自分たちが時間をつくっている』という感覚に繋がっていたのではないだろうか。鼎談ではそれが溢れるほどの心情を込めて語られている。だが、テレビがそれを取り戻すことはもうないだろう。」と書いている。
稲井クンは穏やかにそして巧みに書いているが、実は前川ポストへの礼儀正しい反論だと思う。それでいいのだ。ぼくは「テレビがそれを取り戻すことはもうないだろう」と“断念”することでしかテレビの可能性はないと思っているが、断念に至らずに可能性が成立するとすれば、その方がずっと良いのだから。何故ぼくが断念に至ったかと言うことはこれまでも書いたし、これからも書くだろう。
ただ一つ言うとすれば、「時の鐘」になることの危うさ、前川ポストの冒頭でいった「時間管理の共犯性」だけは忘れてはいけないということだ。

ついでのついでにもう一つ思い出したことがある。
ある時NHKの朝の連ドラ(「テレビ小説」)のスタジオを見に行ったら、馬が走れそうな広さで驚嘆した。NHKってすげぇな、と思ったものだった。そして、オレたち結構イイ勝負してたんだということも・・・。

[テレビ小説 一覧]

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

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