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20113/30

記録せよ! 「方丈記私記」再読-震災<後>とメディア― 窶鐀 前川英樹

■「言葉の遠近感が壊れた」
 歌人の大口玲子さんは、仙台の人だ。
 「偶然の積み重ねで、今を生きている。ただありがたく、おそろしい。」(毎日新聞3月27日「歌壇・俳壇」)、という大口さんの痛切な思いは、そのとき、そこにいて、生き残った人にしか本当のところ分からないだろう。「東北にいるのに、東北の声が聞こえない。その悲鳴が、叫び声が届いてこない。東京のスタジオから発信される言葉のおおかたが、私には妙にそらぞらしく響いてしまう。」と大口さんは書く。
 このズレ、メディアの言語の虚しさをどうすれば良いのか。「そらぞらしくなく」伝える術はあるのかと言えば、多分ないだろう。それでも“何か”をメディアが伝えるとすれば、それは何か。そして、メディアはその“何か”を誰に向かって伝えているのか。その虚しさの前で立ち尽くす、そのナイーブさをメディアは持っているか。どうすれば良いのかと問われれば、「どうすれば良いのかを考えること」からしか始まらない、と答えるしかなかろう。メディアで仕事をするとは何かという葛藤と、そして挙句に、その場に立ち尽くす勇気があるか、と自分に問うことが、災害ジャーナリズムの原点ではないだろうか。
 大口さんはこうも書いている。「震災で壊れてしまったものの一つは、言葉の遠近感だったかもしれない。今私が語っているのは、私自身の言葉ではなく、ニュースの言葉ではないか。私が昨日聞いたのは、夫ではなく死者の声ではなかったか。この、ぐらぐらの遠近感を意識したとき、短歌という定型を欲していた。」と。
 人は、表現することで生きていけるのだ。身体的であるから表現が成り立つ、とも思った。言葉、文字ではなく言葉を持っていることの不思議さとありがたさ、それは個としての表現者だけでなく、メディアで仕事をする者にとっても、いま向き合うべきことなのだ。アウシュビッツの後に詩はありうるか、という問いがあったと聞く。遥か先にそのような問いがつながっている地平に、大震災の後の私たちはいるのかもしれない。

■「龍ならばや雲にも乗らむ」・・・「浮雲の思ひをなせり」
1yUXk12HoO.jpg 「地の動き、家のやぶるゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空を飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐れべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍(り)しか」(註:雷は「いかづち」、地震は「なゐ」)、とは「方丈記」の一節だ。羽がないので、空に飛んで逃げるわけにもいかない、龍であれば雲に乗れるのに、それも出来ない。人はただ大地が揺れるのに脅えるしかない、のである。
 堀田善衛の「方丈記私記」(1971年・筑摩書房)によれば、鴨長明は二十五歳で大火、大風は二十八、大飢饉は二十九、三十、この連続する大地震は三十三歳で、この間福原遷都、平氏滅亡、などなどの政治的厄災や、戦乱群雄跋扈に見舞われる。「これらのすべては平安期という一つの大時代が地底から揺り動かされ、音をたて砂塵をまきたてて崩壊して行くことの、一つ一つの表徴なのでもあった。」と堀田善衛は書く。これは前回触れた、野口武彦が「安政江戸地震」で見抜いた、自然災害の政治性・社会性についての認識と同じである。そして、そのように認識するのは社会科学的というより、作家的歴史感覚によるものであろう。
 堀田善衛は昭和二十年三月十日の東京大空襲の後に訪れた時間の中で、「方丈記」を読む。敗戦直前の、とは後から言えることなのだが、状況下で読みに読む。その間に南海大地震が来る。「かくて空襲下にあってこの方丈記に読み耽っていると、戦時に生起することのほとんどすべてについて、思いあたることがあるようになって来る。」のであって、それは「明治以後の近代日本というものが、ついにかかるところまで追い込まれたについては、私にもそれがおそらく必然の道程であったのであろうと、ある程度の納得は行っていたのであった。その必然がもたらす運命に黙って従うつもりであった。しかしその必然が、すでにぎりぎりの終末に近づいているのに、明日の新たなる日本というものについての映像がどうしても、上手く見えて来ない・・・・・・」という思いに至るのである。そして、「方丈記」の中の一行「古京すでに荒(れ)て、新都未いまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。」を繰り返し引用する。福原遷都で帝のいない古京は荒れ、新都は体をなしていないなかで、人はみな不安を覚えている。「浮雲の思ひ」とは、「人間の生活、社会生活というものに、もし歴史がなかったならばありえない筈の、ある不安の感、であった」と、堀田善衛はいうのである。

■震災<後>
 なにも、やたらに大災害の後の社会不安を強調したいわけではない。
 いま、東日本大震災の「後」とはまだ言えぬ状況で、「震災前と震災後」という言い方が登場し始めている。たとえば、前々回触れた「放送人の証言―曽根英二・人と作品―」の第2回が3月25日に開かれて、今度は35人ほどの参加だったのだが、そこでの議論では「この大震災の後で見たことの意味」という発言が何人かの参加者から聞かれた。今回の上映番組は、一つは被告の立場に立たされた手話もできない聾唖者が、「黙秘権」という概念あるいはその権利行使について、全く理解し得ないままに進行する裁判問題と、もう一つは限界集落の現在を生きる人々を取材したドキュメンタリーで、災害問題を扱ったわけではない。
 それにもかかわらず、「震災後に見ることの意味」が論点になるということは、かなりの人たちが、災害という自然現象を<日本の現在>という社会的な局面と相関させて受け止めているのである。この大災害を<経験してしまった>ということは大きい。そして、私たちは、「その意味は何か」という問いと向き合う局面に入ったのだ。そして、この局面は相当長い期間続くだろうと思われる。それは、ここを乗り切れば日本は変われる、という予感ないしは期待と連動しているようだ。だから、「明日の新しい日本というものについての映像がどうしても、上手く見えて来ない」昭和二十年の日本とは、そこは違うといえば違う。
 しかし、考えてみれば、今回の大震災後の日本は、戦争によって「明治以後の近代日本というものが、ついにかかるところまで追い込まれた」のではないが、黒船以後の日本の近代、つまりその前半は国家的事業として、後半は経済の高度成長として、敗戦を挟んだ二度の急上昇と破綻の果てに今があり、それが限界だということは、認めたくないかどうかは別にして、多くの人がほぼ承知していることであろう。そのことは、広島、長崎に加え第五福竜丸という経験までしてしまった日本が、自ら原発事故による放射能<災害>を引き起こしてしまったことへの苛立ちと不納得の感情として、原子力発電の合理性を認める人も含めて、私たちの内部に長い間残されるであろうことと通底する。そして、その先には近代は超克されるべきか、という命題も甦るであろう。とすれば、やはり「ここを乗り切れば日本は変わる」という思いがあるとはいえ、そこに何か具体的な「映像」が見えているわけではないのである。

■記録すること-知的行為として
 鴨長明が「方丈記」を書いたのは五十八歳の頃であるという。大災害の連続体験の凡そ三十年後だが、それでも、彼が書き記したことによって、私たちは自然的であれ、社会的であれ、その時代の歴史的事象に向き合った人間の意識、感性と思考のあり様を知ることができる。

 では、いま私たちに何が出来るか。義捐金や支援の物資を送ることも、あるいはつつましやかに節電することも、もう少し若ければ?災害地でボランティアとして活動することだって、私たちにはできるだろう。他にもっと出来ることはあるだろう。
 だがしかし、私たちは言葉を持つ存在であり、文字を使う存在であるのだから、何よりも記録することが出来るのだ。あるいは、誰もがそうであるけれど、私たちは映像や音響による記録について、多少はそれらに近いところにいるのだから、そうした方法による記録が出来るはずなのだ。職業的であるかどうかは別問題である。
災害地の只中にいようが、遠く離れたところにいようが、この「千年に一度」の大災害と自分はどのような関係であったか、何を見、何を聞いたのか、それを記録することである。何故記録することが大切かといえば、そこには記録者も記録されるからだ。記録者の数だけ記録が残ることで、少しは人は賢くなれるかもしれないのだ。
 鴨長明が何を思って「方丈記」を書いたのかを、僕は知らない。ただ書きたかったのかもしれないし、あるいはやむにやまれずに書いたのかもしれない。それでいいではないか。それによって、私たちは中世という時代の一つの生き方を知ることができた。堀田善衛は「方丈記私記」を書くことで、戦争末期の<知>の在り方を記録した。人は知的であることから逃れられないということを、私たちは知ることができた。それがとても脆くて危ういものである、としてもである。
 歌人大口玲子は、これから、いつになるかは分からないが、震災<後>を生きることを通して言葉を取り戻し、そして歌を詠むだろう。それも記録である。記録は表現でもあるのだ。

 言葉(あるいは言葉でない方法)で、「記録する」そして「表現する」という行為によって、私たちは「浮雲の思ひ」を越える、あるいはその不安に耐えることはできないだろうか。それは、「生活」というまことに具体的な“場”で耐える、あるいはそこを越えるということと、どのような緊張関係を形成するかということでもあるだろう。

                □

災害の前で立ち尽くすナイーブさと勇気を持てるかという問いを、個人の知の行為としてだけはなく、メディアの存在理由としてとらえ返すこと、それが震災<後>のメディアのテーマであろう。そのためにも、まず記録せよ。

TBSメディア総研“せんぱい”前川英樹

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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