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20116/21

[シカゴの“あや”を東京で取る―志村さんポストへの乱反射―] 前川英樹

志村さんポストはいつもどこかビックリがある。
毎回のテーマも面白いが、それだけでなく、そこに書かれていることがチョット省略過多のために、こちらの解釈力が試されているみたいだ。あや取らせる方法として上手いな、とも思う。
今回は、以下のようなあや取りになった。

1.志村さんはこう書く。「個々が違う差異を持つ点から出発する結合が日本に無いという主張は、マスメディアが作り上げる共同体上の事情ではないか」。
これは多分違うな。マスメディアとは無縁とは言わないが、それよりずっと根が深い。ついこの間まであった、というより今でも日本社会の底流にあるムラ的=村落共同体型の意思形成の仕組み、折り合いの付け方といったような問題だと思う。今でもかなりの程度において、企業内の意見調整や地域社会のものの決め方は概ねこれではないだろうか。もう少し上品にいえば「和の精神」ともいう。
これは良いか悪いかという話ではない。その仕組みが維持できなくなり、新たな仕組みが不分明の状況の中で、ネットによるコミュニケーションという情報のあり方が先行しているというのが現在ではないのだろうか。

2.だから、それに続けて「身の回りのリアル社会は、個が差異を持ち、公共性も発揮していたのではないだろうか」と志村さんがいうリアル社会は、実はムラ的なるものと混在することで成立しているのではないか。敢えて、大胆に推測すれば、大震災の被災地域、つまり非日常状況では、むしろ個の差異に基づく公共性が成立し、逆に都市の日常ではなかなかそこまでの緊張を背負うことがないという、そういう時代状況があるのではないだろうか。これを世代間格差の問題として考えてよいかどうかは微妙なところだ。

3.次の論点は「情報発信源としての国家が、ソーシャルメディアを公認し、利用すると決めたら、既存マスメディアを見放しはしないか。もし、いまマスメディアが国家から見放されたら、そのアイデンティティーは何に基づくのか」というところだ。
マスであろうが、ソーシャルであろうが、メディアは国家による公認を求めるべきではない。この「あやプロ」でもしばしば触れたが、電波メディアの免許制度というのは周波数監理と表現の自由というパラドックスのきわどさを、メディア側がどれほどの緊張感で持ちこたえるかによって成立するのであって、その一点においてのみマスメディアの主体性が担保される。まして、ソーシャルメディアはそうしたパラドックスの外にあるのだから、国家による公認など蹴とばしてしまえばよいのだ。
そもそも、このフレーズが登場する前に、志村さんは「ひとたびその意見がツイッターでつぶやかれ、ブログがシェアされると、それがインターネットコミュニティで発見され、ソーシャルに評価される。マスメディア、権力からのお墨つきは不要だ」、「このソーシャルメディア空間は、マスメディア情報とのズレを顕在化し、記録していく」と折角鋭く指摘している。とするならば、「国家によるソーシャルの公認」というのはやっぱり余計なお世話という話だろう。それとも、まさかとは思うが、ソーシャルメディアの中には、やはり国家から公認されたいという思惑でもあるのだろうか?
ついでに、「Wikileaks―アサンジの戦争―」(「ガーディアン」特命取材チーム・講談社)の面白さは、マスとソーシャルと国家の関係のスリルにある。ガーディアンは新聞だから免許とは関係ないが。

4.ところで、国家は「マスメディアを公認する権限(あるいは、そのような意志)」を、最後まで手放したり、見捨てたりしないだろう。だから、マスメディアの危うさは、人々との信頼関係ではなく、国家による公認、あるいは共犯関係をアイデンティティーにしてしまうことにある。既にそうなっているという指摘は多い。だが、ことはそう単純ではない。このことは、また別の機会に述べることになるだろうが、大震災におけるローカル局の仕事はちゃんと評価しておくべきだ。志村さん的指摘に向き合うためにも、である。

5.「メディアはリアルを越えられないのだろうか」という視点は、視点として成立するが、そこでは「実物と対象と表現」の関係が未整理であるように思う。
「事実の写生から脱皮した現代アート」というが、ダビンチも伊藤若冲も、印象派も浮世絵も、写生であってかつ写生を越えた。そこに表現が成立する。キャパもアラーキーも対象物を撮影し、その写真は複製物として頒布される。それでもそれらは表現である。
「実物がいいね」という場合の実物とは何か。模写された絵画や画集に印刷トされた絵より、ホンモノの絵が良いというのは当然だ。また、その実物と表現対象つまり素材としての事物とは異なる。素材のほうが作品より「良い」というのはヘンだ。志村さんは、もちろんそんなことは言っていないと思う。ここも、もう一言というか、もう一筆欲しいところだ。

6.「野球場には本物のオーラがあったのだろうか」ということでいえば、「野球場には本物のオーラがあった」のである。スポーツであれコンサートであれ、ライブという時空の一回性に人は惹かれる。テレビ中継として成立しなくてもライブに人が集まる理由はそこにある。
では、「テレビ中継」とは何か。それは、中継されることによって視聴者との間で成立する新たな関係性の創出であろう。それをテレビは方法論として思想化しきれないままに今に至っている。「メディアはリアルを越えられないのだろうか」という指摘に対するひとつの答えはここにある。

7.だから、「事実とのみ直結された社会は、純化された正しさだけが残る寛容性の低い社会だ。そんな社会では、メディアも息苦しい」と志村さんはいうが、そしてそれはそのとおりだが、現代アートに限らず、古典であれ、モダンであれ、表現行為というものは事実性を超えたところに成立している。今のテレビが痩せているのは、想像力の枯渇により、リアルに過度に寄りかかっているからだろう。このことと、複製性(コピー)とオーラ(アウラ)との関係は別であろう。

                     □

志村さんが冒頭で書いているように、6月の欧米は確かに素敵だ。
最初にヨーロッパに行ったのは6月のスイスだった。6月生まれの僕は、毎年梅雨の蒸し暑いときに誕生日を迎えていたが、その時同行者に「前川さん、ではお祝いをしましょう」といわれて、暮れかかったままなかなか夜の来ない湖畔で風に吹かれながら飲んだワインは美味しかった。

そういえば、「六月は深紅の薔薇」という沖田総司を描いた小説があった。いいタイトルだということだけ覚えている。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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