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20118/15

重くて、切ない時代だった…「マイ・バック・ページ―ある60年代の物語」を読んだ、ついでに「日本アパッチ族」再読 前川英樹

遅ればせながら、「マイ・バック・ページ」(川本三郎・平凡社)を読んだ。
それは、重くて、切ない時代だった。
「全共闘の学生たちが問題にしていたのはなによりもこの自らの加害性だった。・・・当初から政治行動ではなく思想行動だった。だからそれはついにゴールのない永久懐疑の運動だった。現実レベルではあらかじめ敗北が予測された運動だった。」・・・(全共闘の学生とっては)「大学はどうしたらよくなるか」というような現実レベルのことよりも「おまえは誰だ?」という理念レベルのことのほうが大事だったのだ。いわば、学生たちは政治言語よりも詩的言語の方を優先させていた。」

こうした時代感覚は、1968年のTBS闘争にもしっかり反映されていて、「テレビジョンとは何か」という問いはまさにそのようにして成立していたのだ。文化を政治の風下においてはいけないというような闘争について、何故敗北したかという運動論的問いは成立しない。成立しない問いを問わざるを得ないところに、<生き方>というものが立ち現れる。
「あやブロ」でも何度か登場する「お前はただの現在に過ぎない」とは、そのような本である。・・・が、しかし今それがどのように読まれるかは、もちろん読み手の自由だ。

そうした時代の後半に、著者の川本三郎さんは<赤衛軍事件>なる事件に記者として関わることになる。その事件が政治的・思想的事件かどうかはについて、些か疑わしいと僕は思っているが、いずれにせよ、川本さんは取材を通してその犯罪に関するある物件を引き取り、そして処分する。そのことを捜査する警察当局に対して、「取材原の秘匿」の原則を崩さなかったために逮捕され、朝日新聞社を追われる。そうした時代を生きたジャーナリストの記録がこの本だ。

「あの時代、新左翼運動に共感した企業内ジャーナリストが、過激派と呼ばれる突出した政治組織の行動を取材するとはどういうことだったのか」と川本さんは書くが、「企業内ジャーナリスト」に何が可能かというテーマは、TBS闘争後のいくつかのシンポジゥムで語られたものだった、ということも思いだされる。

川本三郎さんより半世代上の僕は、そのころ(60年代後半)TBS闘争とその余韻の中で、ある出版企画のために村木良彦さんと一緒に反戦青年委員会(既成組織から離れた自立型の労働者運動)の取材をしていた(後に「反戦+テレビジョン」として刊行された)。仕事の合間に取材し、「やや未整理のまま<提示>することになってしまった」(あとがき)この本は、しかし僕にとっては忘れがたい記録である。そして、その直後に結成されたテレビマンユニオンに僕は参加しなかった。それが、僕にとっての一つの時代の終わりだった。

「青春は年齢ではなくて、事件によって区切られる」といったのは、長田弘だっただろうか。そして、青春という言葉も死語になったというのは、三浦雅士か。

「たしかに私(たち)にとってあの時代は『いい時代なんかじゃなかった』。死があり、無数の敗北があった。しかしあの時代はかけがえのない“われらの時代”だった」・・・「いい時代なんかじゃなかった」と「いい時代だった、その両極に引き裂かれていまの私(たち)があるのだろう」
あの時代の感性を今でも持ち続けている川本さんは、とても良い生き方をしているように、僕には思える。

60年代前半、安保闘争の時代にも死も挫折や裏切りはあったが、正統派(つまり権威としての)左翼の呪縛あるいは支配から解放されたことで、学生たちの周辺には、何処か明るさが感じられた時代だった。少なくとも僕の周りではそうだった。その意味でブント(共産主義者同盟)と全学連主流派の果たした役割は大きかった。ここは解説が必要だろうが、それはまたいずれ。

だが、その後の60年代後半から70年代という時代は、重くて、切ない時代だった。

                       □

小松左京さんか亡くなった。3.11.を長野県のスキー場で体験した僕は、その日の夜長野県北部の震度6の地震を身近に感じた。「日本沈没」が始まったと即座に思ったものだった。間違いなく「日本沈没」は小松左京の傑作である。だが、小松左京の最初の長編「日本アパッチ族」は快作である。古書(といっても、再刊本)をAmazonで取り寄せた。

戦争の廃墟でクズ鉄集めをしていた人々は、何故か“アパッチ”と呼ばれていたが、大阪城近くの旧砲兵工廠では、彼らの中から鉄を喰う人々が誕生する。その食鉄アパッチ族の主人公は、アパッチになってしまったことを後悔する元新聞記者にいう、「今、アパッチである連中は、たとえ人間であっても、(略)一生人間として生き延びても、死ぬまでに結局わずかしか人間的喜びをえられないということを悟った連中やーきみらは、中途半端に貧しいだけで、徹底的に貧しゅうないから、そんな連中のこと考えられへんかったやろ」・・・「おれは、自分のおかれた状態を、不幸とさえ考えることができなかった。・・・人間として死ぬか、アパッチとして生きるかの選択に立たされとったんや…」、なんだかマルクスの疎外論や「共産党宣言」でも読んでるみたいだ。
そして、アパッチ戦争で炎上する京都を見ながら、「伝統、思い出、歴史-そんなもの、外にあらわれてるもんや-寺を焼かれて、ほろびるような伝統やったら、そんなもんとっとく必要ないわい。建物が焼けても失せても絶対に消えんもんこそ、残る値打ちがあるもんや」と大酋長はいう。坂口安吾の「空虚なものは、その真実のものによって人を撃つことは決してなく、詮ずるところ、あってもなくても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。」(日本文化私観)を思い起こさせる。

小松左京はやっぱり凄い。

「日本アパッチ族」はなかなか手に入らないが、機会があれば是非ものとしてお薦めする。それと、大阪弁って表現の幅が広いぁ・・・ネ、河尻さん!

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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