ソトテレビ(志村一隆)
「ソト」に出るテレビ – Playvision -
「家電」のイノベーションが「内から外」に変わってる。だったら、テレビも「ソト」に出るべきじゃないか。
完成品の番組を見てつぶやくソーシャルテレビはリアルタイムのお茶の間空間を作った。
これは、インターネットの影響の第1段階。その第2段階は、クリエイティブの変化に現れるだろう。自分が、マルチエンディング、ソーシャル・ベネフィット・ストーリーテリングといったテーマについてポストしているのは、そのためだ。そんな「表現」に充ちたメディアを、前回書いた「Playするテレビ」として描いてみた。
いや、「テレビ」がソトにでるなら、テレビジョン(Television)でなく「プレイビジョン(Playvision)」とでも呼んでもいい。
ただ、テレビを「ソト」に出すためには、テレビ(局)を「映像=コンテンツ」と「インフラ」の2つに分けることが必要だ。
それは、つまり、テレビ(局)の話ではなく、もっとおおきく「テレビ=映像」と視野を広げることになる。
ここが、「テレビの未来」議論の主語を、テレビ(局)に限定するのか、映像に拡大するのかの分岐点である。
こうしたテレビを「コンテンツ」と「インフラ」に分ける「ハード・ソフト分離論」には、異論がたくさんあるだろう。
テレビは「モーメント」「ただの現在に過ぎない」からテレビなのであって、それと、単なる「映像」とは違うのではないか?という視点である。
(「メディアがコンテンツを規定する」という視点は、あやぶろでも度々論者が触れている。前川センパイのコレ。今谷秀和さんのコレ、境さんも先日の緊急鼎談(もうひとりは、バッキー山脇紳介さん)で、そんなことを仰られてたと思う。)
もちろんテレビが持つモーメント性は不変である。テレビはそれを失なうことはない。
自分が言いたいのは、その「モーメント」が、個人個人に分散したところにある。(というか、個人に取り戻されたのだ)(テレビの時間というテーマも、あやぶろで相当議論した。稲井さんの「テレビの刻んだ時間」)
綺麗な夕焼けを見て、スマホのカメラをオンにする。スマートフォンは、スクリーンであるとともに、カメラであって、個人個人のモーメントの記録・発信装置である。(参照:無数のスマホに記録される記憶。この辺は次の著作で触れてみたい)
この点を無視しながら、テレビ(局)の立ち位置を考えることは、むしろ暴論であろう。
コメント
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