志村さんの「Playするテレビ」に賛同し、反論する
先日はあやぶろナイト、楽しかったですねー。あのイベントについては氏家さんが書いてらして、そしたらそれを受ける形で志村さんが「Playするテレビ」というエントリーを書きました。この中に”「テレビ局」に未来は無いかもしれないが、「映像」には未来があることだけは確かだ。”という一文があり、この部分を氏家さんが「ケンカ売られてるぞ」とたき付けて、それに応えて稲井さんが書く、というあやとりブログらしい連鎖が久々に起こっています。あやぶろナイト参加者としてはこのあやとりに乗っからないわけにはいかないなと、ぼくも書いてみようと思います。
志村さんの“この10年で、テレビと視聴者の3メートルの間に、ネットが入り込んだ”という指摘は「そうそう!」と言いたくなりました。
ぼくは人前でテレビについてしゃべる機会があると、よくこの図を使います。
これはいま変わりつつあるリビングルームのイメージですね。少し前までは、テレビがあって、自分がいて、それだけでした。でもいまは、テレビと自分の間にスマートデバイスがある。スマートデバイスがあるということは、それを通じてネットにつながっているということになります。しかも、まずソーシャルメディアがあるんです。ソーシャルがあって、その仲介でその奥にありとあらゆるネット上のコンテンツがある。テレビと自分の間が一気にごちゃごちゃの複雑な空間になってしまった。5年前といまでは、テレビと自分の関係がすっかり変わってしまったのです。
だから、テレビは受動的に番組を眺めるためのものから「Playするテレビ」になろうとしている、という志村さんにまったく賛成。その通りだなと思いました。
でもここからがちょっとちがう。テレビ局の未来は、Playにやはりあるのだと思うのです。あれ?だからちがわないかな?
志村さんの「Playするテレビ」の話を読んで、それってひとりひとりが映像作家になるってこと?と受けとめるとなかなかイメージできません。でも、「Play」の幅を広げると、すでに起こっていることに気づきます。
例えば「あまちゃん」です。毎週、毎日、漫画が描かれました。あれはPlayするテレビの一種だと思います。「あまちゃん」に関しては多様な二次創作がネット上を飛び交ったわけです。つまり、「Playするテレビ」を、映像に限らないでとらえれば、すでにあらゆる現象が起こっている。『半沢直樹』も、某動画サイトで二次創作がお祭りのように花盛りになっています。ひとつひとつ、ホントによくできていて面白いです。
そんな漫画描くとか編集するとか、難しいことじゃなくても、ツイッター上で「あまちゃん」について深い解釈を披露する人もたくさんいました。あれも一種のPlayです。
それでさえ小難しいかもしれません。だったらPlayの幅をもっと広げて、番組について話すこと、でもいいですね。「あまちゃん」はとにかく、語りたくなる要素満載。80年代のこと、アイドルのこと、東京と地元のこと、母と娘のこと、大人計画のこと、などなどなど。視聴している時間だけでなく、そのあとで語り合うのがすごく楽しい、それが「あまちゃん」でした。これもPlayするテレビです。
ではそういうPlayするテレビでは、テレビ局は要らないのでしょうか?
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