富士からみえる過去・現在・未来②(稲井英一郎)
富士には月見草がよく似合う
太宰治もいうように、富士眺望の名所で、甲府から東海道に抜ける鎌倉往還の衝にあたる御坂峠(みさかとうげ)が代表的な観望台であることに異論を唱える人は少ないだろう。
その御坂峠に昔、自転車で登ったことがある。
学生時代のことだが、甲府の手前、石和温泉から御坂山に向かって進み、心臓破りの急勾配、九十九折の旧道を登りきると古いトンネルがあった。
トンネルを抜けると、いきなり山梨側からみた北面富士のほぼ全景が姿をあらわした。手前には河口湖の湖面が少し見え、富士三景の一つといわれる眺望だ。
峠には「富士には月見草がよく似あふ」の碑文がたっており、つとに有名だ。
昭和13年に作家の太宰治が峠の茶店に長逗留し、代表作の「富嶽百景」を執筆した。さきほどの句は「富嶽百景」の一節である。
この句を楽しみに、富士と月見草の風流な姿を期待して登ったのだが、たどり着いたときは夕闇が迫り、余裕もなく悔しく立ち去ってしまった。
通俗化する富士のイメージ
太宰が書いた一文が、実は風流を詠んだものではなく、揺れ動く彼の心境を反映していたことは、のちに「富嶽百景」を読んで知った。
「富嶽百景」の中で太宰は、富士山をほとんど否定的に描いている。めったに誉めていない。
たとえば東京にいたときにアパートの窓から見た富士山は“なんのことはない、クリスマスの飾り菓子”のようであり、“船尾のほうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似ている”とにべもない。
御坂峠にやってきたときも、太宰は富士山を“ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ”とこき下ろす。
この時期、太宰は自殺未遂を何回も起こし、薬物依存症になり、過去の自分を断ち切って再起するため、御坂峠にやってきた。
だから富士山の姿は過去の自分であり、彼と対峙する世間一般の象徴であったかも知れない。
そんな折、バスで移動中に、乗り合わせた老婆が富士山に一瞥も与えず、路傍に咲く月見草を指さすのをみて、太宰は感動する。
“富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、(中略)けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う”
巨大な富士山に対峙する月見草に、過去に惑わされず世間の声に動じない、自分の進むべき姿を見てとったのではないか。
太宰が逗留した茶屋「天下茶屋」は今でも二代目の茶屋がそこにあるが、最初に建てられたのは昭和9年(1934)。その4年前の昭和5年に富士湖畔で初めて別荘がつくられ、10年にはゴルフ場が開発された。
富士周辺ではじまっていた観光開発が、通俗的なリゾート観光地としての富士山のイメージを広めたことは想像にかたくない。
この太宰の心象から、素直に富士を愛でた江戸の人々とちがう近現代人の姿が見える。富士を特別視せず、ときには美しいと誉め、ときには俗な山と反発する。
そんな通俗化イメージの一方で富士はナショナリズム、つまり国家主義や国体のシンボルのひとつとなっていく。
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