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20132/21

● “見る”そして“記録する”ということを考えた・・・私たちはまだ<3.11.>の中にいる。 『先祖になる』を観た。(前川英樹)

「先祖になる」(池谷薫 監督作品 製作・配給:蓮ユニバース)を観た。
<3.11.>で津波に襲われて家を破壊され、長男を亡くした佐藤直志(77歳)が、仮設住宅に入るのを拒み、“そこ”に家を建て直すまでの1年半のドキュメントだ。
農業と林業で生きてきた佐藤直志は、震災後も半壊した家で暮らし、自宅近くの荒れ地になった土地に種を蒔き、田植えをして稲を刈り取り、山に入って木を伐って暮らす。そして、祭を支える。家を建て直して、“ここ”で生きるために。

2時間余、説明はほとんどない。
佐藤直志のぶれない生き方、したたかな生活力が伝わってくる。一緒に池谷監督の<優しさ>も伝わってくる。ドキュメントとは記録者も記録されるのだ。この監督は<優しすぎる>とも思う。
ともかく、「観る」ことをお薦めする。

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観ながら、そして観終わって思ったことを書いておこう。

1.  人が生きる理由。
息子を失い、“ここ”に家を建て直すことを妻に反対され、それでも家を建てるために生きるとは、どういうことだろう。人は、どういう理由があれば全てを失っても生きていけるのだろうか。親から子に何かを残し伝えるという理由は既に奪われている。あるのは、“ここで生きる”ということの思い(意味というよりは)をここで生きることを選んだ人たちへ、あるいはここを去ることを選んだ人たちへ伝ええるということだろうか。自分の生きざまは大災害に見舞われようと変えられない、そういうことだろうか。大災害であればこそ、なのだろうか。全ての過酷さを黙って受け入れても、そこだけは変えない、ということは。

2.  「先祖になる」=共生と共同性
人間は自然と共生することでしか生きていけない。
津波に襲われ瓦礫の残る荒れ地に種をまけば、芽が出て収穫がある。<3.11>から数ヵ月後には田植えをする。秋には稲穂を刈り取る。山に入って木を伐る。人が生きるとはそういうことであるらしい。そして、人々の共同性がつくられる。
破壊された土地で再び自然と共生し、そこに生きる人々と新しい共同性を作り直す、「先祖になる」とはそういうことなのだろう、と私は思った。

3.  祭
・・・であればこそ、祭が大事なのだ。
自然の恵みへの感謝としての祭。
共同性を祝祭として表現する祭。
この映画で一番こちらの心に刺さるのは、この土地での生活がどうなるか分からないから「町会はもう機能しない。解散だ。」という話が交わされる中で迎えた祭りの最後に、「青年部は町会解散を認めない」とリーダーが叫び、青年たちがそれに応える場面だ。
祭とは何か、その土地で暮らすとはどういうことか、都会が喪失した「土地・人・生活・文化」の緊密さがこちらに迫ってくる。佐藤直志は、その声をじっと聞いている。

4.  信仰。
この映画には色々な信心、信仰が出てくる。地元の寺社、山伏、仏壇、神棚、そして伐採した樹木への祈り、など。
唐突だが、一神教ではこうはいくまい、と思った。
自然界の様々なもの宿る何かをそれぞれに信仰の対象にする、それが自然と人とのかかわりの基本だろう。一神教でも神は細部に宿るというだろうが、それはどうも違うように思う。宗教学には縁はないが、多神教や土着信仰に魅かれるものがある。もちろん、抽象性や形而上的思考の強力さ、そして救済の論理があればこそ、一神教は圧倒的な浸透力で世界に普及したのだろう。だが、アニミズムのような信仰の在り方は消えるものではない。それが自然=人間という関係を表しているように思える。
金子兜太の句を思い出した。一神教からはるかに遠い。
「猪がきて空気を食べる春の峠」
「今日までジュゴン明日から虎ふぐのわれか」

5.  音
田植えの情景に蛙の、そして鳥の声がかぶる。
蛙たちは、鳥たちは、あの3月11日をどのように過ごしたのだろう。そう思わせるカットだ。
総じて、この映画は“音”が優れている。映像は無理をしない。息を呑むカットは多くない。素朴にきちんと人々に向き合っている。
一方、音は実に多くのメッセージ伝えてくる。エンドタイトルにいたるまで、音が大切にされている。人の想像力は多様なのだ。

6.  ドキュメンタリー
テレビド・キュメンタリーが失ったものは多い。というより、テレビド・キュメンタリーそのものがなくなりつつある。辛うじて、地方局の制作者たちが何本かの優れた番組をつくり続けている。
「先祖になる」は格別高度な機材、多くのスタッフ、特殊な手法、など驚くほど嵩む制作費を投入しているわけではない。ぎりぎりの条件で作られているはずだ。テレビ局の制作条件があれば可能なのだ。
では、何がテレビ局のドキュメンタリーを不毛にしつつあるのだろう。視聴率やクライアント確保の問題は、今のテレビ局経営の在り方からいえば、それらを外せないことも分かっている。それでも制作するために何が必要なのか。
「先祖になる」の制作は、1年6ヶ月間、東京-岩手を5万キロ往復したという。地元局ならそのエネルギーをもっと有効に使えたはずだ。多分、その時々の取材はそれなりに行われているだろう。その取材活動をさらに次の高みに押し上げることで、テレビジョンの可能性を地方から提示することが出来るはずだ。「先祖になる」は地元局の制作者がまず観るべきだ。
ここには、表現の基本、人間と向き合うこと、人間の言葉を大事にすること、それがαでありωであることが示されている。私はそう思う。
ローカルが厳しい環境でそうすることで、キー局が放棄したものが何かを問い返すべきだ。
TBS/JNNは三陸臨時支局という拠点をつくり、持続しているのだから、そういうことを見つめるべきだろう。
記録者もまた記録されるような、そのようなドキュメンタリーを作ろう。

7.  若干の不満・・・好みでいえば。
① もう少し、例えば15分でも詰めたら、さらに切れが良かったのだろうか。それは見る側の生理、テンションの問題だろうが。
② 旧居の中で「新しい家の窓から朝陽が差し込む」と語る佐藤直志がいて、ラストはそのとおりの映像だった。ちょっと調和的、完結的過ぎて不満だが、それも監督の優しさなのだろうか。
③今の場所に家を建てることについて、自治体側が「条例では認められない」という趣旨の見解を示した時、佐藤直志と行動をともにする者が、「法とか、条例は被災者を守り、支援するためにあるのではないか。それを妨げる法や条例なら、そっちを変えれば良いではないか」
と迫った。これはひとつのポイントだと思って観ていたのだが、その話はどこに行ったのだろう。佐藤直志の家の再建には国の補助金が支給された。また、被害を受けた資材を利用し地元工務店が請け負えばそれも支援の対象になるという話がでてくる。それはそれとして、
尤もな措置だと思う。だとすれば、前半に出てきたアノ問題はどうなったのだろう。
④ チラシに「“日本人の底力”を描き出していく」、「日本人とは何か」とある。
これって、違うんじゃないだろうか。
どこの国、どこの世界でも、戦争や大災害にあった人々は必死に夫々の生き方を支えにして“底力”を発揮するだろう。だから、「××人の底力」「○○人とは何か」というテーマは常に成立する。もちろん、文化とは結局のところそれらと無縁ではない。だが、国あるいは人種・民族という概念は他者との差異で成立するとしても、そこに何の優位性もないはずだ。
そこで個がどのように生きるか、そしてどのように共同性が形成されるかが問題なのだ。その、それぞれの固有のスタイルを文化というのではないか。
だから、文化は多様であり、かつ等価なのだ。

 

一昨年の11月、<3.11>から8ヶ月後の仙台、気仙沼、陸前高田、大船渡、大槌、そして田老の各地を視察した。2日間の行程だから、駆け足だった。その時のことは「あやとりブログ」に書いた。
2011.11.15.[想像力を越えること -<3.11>の現地に行って来た-]

 

あの時、陸前高田では気仙川河口付近に足を止めその地域の光景を目に焼き付けた。そして、高田の一本松を遠望した。そこから、海沿いの道路を北上したのだが、そこに廃墟として残された団地の4階にまで届いた津波の痕跡を見て、この高さまで街中に波が寄せたのだと思ったものの、その情景は想像を超えた。そして、遠くに見える高田高校までの何もない、町ごとなくなってしまった空間。ただ、新しい電柱だけが復興というもの象徴している無機質な景色だけがあった。

 

[2011年11月の陸前高田]
3-1
気仙川近くの学校

3-9
海沿いの団地

3-7
何もなくなった街・遠くに高田高校

3-8
高田高校の校舎にも津波の痕跡

3-6
電柱だけが新しい

その光景のずっと向こう、平地から山に立ち上がるあたりなのだろう佐藤直志が住んでいたのは。あの時既に、そこでは佐藤直志の営みがあったのだ。

「見る」とはまことに難しいことである。
私たちは、東北に行って何を見たのだろう。何も見なったのだろうか。
そんなことはない。私たちは、確かに“何か”を見たのだった。そのことを大事にしたい。そうでなければ、その時各地を見に行った者の夫々の<3.11.>ないのだから。
このようにして、私たちは記録という行為、記録の意味、を経験するのである。

だから、私たちはまだ<3.11.>の中にいる。

 

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸 隠。

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