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20126/7

6・7【いきと野暮のメディア論】稲井英一郎

 

 

九鬼周造という明治の哲学者が書いた『いきの構造』(岩波文庫)という本があります。日本近世年史を専門とされている成城大学民俗学研究所の小沢詠美子講師から教えていただいたのですが、周造は駐米大使だった九鬼男爵の四男で、家系をさかのぼれば九鬼水軍に連なるという名家の出の学者。大正から昭和にかけてはパリに留学し、あのハイデッガーと親交をもち、またサルトルは周造の家庭教師だったといわれています。

(岩波書店刊)

その九鬼が古典的ヨーロッパ哲学の知見を総動員して分析を試みたのが、江戸時代以降の日本人の美意識の底流に流れる「いき」の美学の構造。日本思想史上で類書のない異色の学術書です。浅学の身で要約することをお許しいただければ、「いき」の定義とは

①    諦め(垢抜けしている)
②    意気地(張りがある)
③    媚態(色っぽさ)
以上の3つの契機(要因)がなければ成り立たない、というものです。

そもそも「いき」とは色里の遊女の媚態を「いいね!」とする美意識からでたものですが、「いきの構造」を研究したフランス文学者の多田道太郎氏の解説によれば、明治以来の輸入文化の波のなかで自分を失いつつあった日本文化の、まぎれもない独自の価値を九鬼は「いき」のなかに見いだしたのではないかといいます。
そして「いき」とは、江戸時代の文化文政(化政期)の文化の核心であり、のちに日本の美意識の基的構造にまで昇華したものとして、九鬼はとらえていました。

 

媚態

さて、哲学論に入るのが本題ではありませんが、3つの要因によって、なぜ「いき」となるか、多田氏の解説を借りてもう少し説明します。
まず材料を提供するのが媚態です。哲学者のいう九鬼がいう媚態とは

 「一元的の自己が自己に対して異性を措定(そてい)し、
自己と異性との間に可能的関係を構築する二元的態度」

 難解な言い回しですが、媚態とは異性にべったり寄り添うことではなく、二人のあいだにどういう関係が成り立ちうるかを色々と自分で探っていくという、一種の緊張関係に入ることです。しかも、

 「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には
媚態はおのずから消滅する」

 うーん、これなら分かりやすい。ご自身の経験と照らし合わせてください。

 

意気地

その媚態の次に必要なのが、意気地です。ここで言う意気地とは、相手に対して反抗を示す意識であり、江戸文化の道徳的理想、ひらたくいえば「江戸っ子の気概」です。

 「野暮と化物とは箱根から先」 (箱根から東には住まぬ、という意味)

 「宵越(よいごし)の銭をもたぬ」は江戸っ子の自慢でした。歌舞伎で市川團十郎の当たり狂言である「助六(すけろく)所縁(ゆかりの)江戸(えど)桜(ざくら)」の主人公、助六にみられる美学であり、命しらずの町(まち)火消(ひけし)や、寒中でも「白足袋はだし」をつらぬく鳶(とび)の者(もの)の「いなせ」な心意気だったのです。この意気地によって媚態は光沢を増していきます。

豊原(とよはら)国周(くにちか)筆の助六(ホノルル美術館データベースより)

 

諦め

さらに、運命に対する諦め、執着を離脱した一見無関心な心もちをもつことで「張りのある色っぽさ」は、すっきり垢抜けした心もちになり、「いき」が完成するのです。

 

「野暮は揉まれて粋(いき)となる」

 

つまり「いき」とは 垢抜けして 張のある 色っぽさ ということになると九鬼はいいます。
掲げた浮世絵は葛飾北斎の弟子のひとりだった、抱亭(ほうてい)五清(ごせい) が描いた理想の「いき」な美人図。

抱亭五清「蛍狩(ほたるがり)二美人図(にびじんず)」(板橋区立美術館HPより)

 

ヨーロッパ人も愛した「いき」の魅力

この美意識はヨーロッパ人にも知覚できるものと九鬼周造はいいます。20世紀初頭のドイツの小説家「ケレルマン」は日本に数ヶ月滞在して旅行記を著したのですが、『いきの構造』のなかで九鬼は、その旅行記『日本に於ける散歩』に次のような記述があると誇らしげに紹介しています。

                 ケレルマンがその著『日本に於ける散歩』のうちで、日本の或る女について
「欧羅巴(よーろっぱ)の女がかって到達しない愛嬌をもって彼女は媚を呈した」といって
いるのは、おそらく「いき」の魅力を感じたのであろう。

 余談ですが、恐ろしく偶然のことながら、フォルカー・シュタンツェル駐日ドイツ大使が先月の個人ブログ「大使日記」の中で、このケレルマン(大使はケラマンさんと呼んでいます)の、『日本における散歩』(Ein Spaziergang jn Japan)を古書店で発見して購入できたと書いておられます。この本にめぐり合えたことは「運がよかった」そうで、このブログを読んだときに、九鬼のユニークな研究が100年の時空をこえて、現代の人々に語りかけてきたような感慨を覚えました。

(“Ein Spaziergang jn Japan” ~ シュタンツェル大使のブログより)

 

メディアの「いき」とは

さて、この『いきの構造』分析が現代の日本におけるメディアにも通用するのではないか、というのが本稿の主題です。
ちなみに3つの要因(通過段階)によって世界の成りたちを説明しようとするのは、プラトン以来のヨーロッパ哲学の伝統です。

まず、媚態という人間関係を異性に限定するのではなく、メディアの主たる受け手である、視聴者・読者・観客であるとすればどうでしょう。
テレビは視聴者にべったりと寄り添うのではなく、惹きつけたいと想う視聴者とのあいだにどういう関係が成り立ちうるか、テレビ局や番組制作者はあれやこれやと推測し、両者の関係は一種の緊張関係に入ります。
ここは前川センパイが指摘した「メディアと<大衆のまなざし>の関係」につながるでしょうか。

新聞や雑誌なら、記者・編集者がこの記事によって読者とのあいだにどういう関係が成り立ちうるかを想像し、これも一種の緊張状態にはいります。
メディアの受け手とは視聴者や読者に限りません。報道なら取材先やニュースソースとの間に生じるだろう関係を思案し、緊張状態はつねに続いていきます。
映画や演劇、コンサート、伝統芸能にも同じような関係が成り立ちえます。

その緊張状態に意気地が加わるとは、視聴者・読者・観客に一定の反抗を示すことです。視聴者や読者の求めるままに唯々諾々とするのではなく、時には「あなたに媚びないぞ」と、自分の矜持を示したりすることです。俺には俺の譲れない線がある、という姿勢。
これは志村さんの「視点提示」論センパイの「旗印」論につながりそうです。

最後に諦めの気持ち。そうはいっても、現実は簡単にくつがえらない、という運命に対する知見。自分の置かれた環境の中で折り合いをつける判断。番組や記事の中に、運命に対する知見や洞察がないと、主義主張に執着するドグマ・イデオロギーの発露という面白みのないものになってします。
ハリウッド映画のようなハッピーエンドはわれわれには眩しすぎる。運命に抗いつつも従容たる態度をみせる主人公に品格と深い共感を覚えます。
こちらは、拙稿ミュージカル「レント」にふれた「心の軸」論につながるでしょう。

 

野暮にならぬ

かくして日本人が考える「いき」なメディアとは、垢抜けして、張りのある、艶やかな魅力をもったメディアということになります。
「いき」の対義語は「野暮」。だから、いきの3つの要素のひとつでも欠けると、それは野暮なメディア。これはメディアが受け手に届けるすべてのメッセージ、コンテンツにも当てはまるはずです。

テレビ番組、記事、小説、随筆、紀行文、映画、演劇、コンサート、文楽、歌舞伎・・・・・
江戸っ子が誇りとした「いき」の境地は簡単には到達できない。メディアが示すコンテンツにも、残念ながら「いき」と「野暮」が混在してしまう。そもそも野暮がないと「いき」も目立たない。
しからば、矜持あるプロの作り手たるには、野暮にならぬよう苦心惨憺、世間に揉まれて「垢のぬけたる苦労人」めざしてがんばるしかないのでしょう。

 

番外編~野暮な小噺

ご隠居: それにしても、ちょいと気になるのは、近頃話題のソーシャルテレビ論だな。

八兵衛: ソーシャルって、人相見ですかい?

ご隠居: あいかわらず馬鹿だねえ。そりゃあ相者(そうじゃ)だよ。賢いこちらの読者はとっくにご存知だ。

八兵衛: そのソーシャルってぇやつの、どこが気にさわるんです?」

ご隠居: いやね、どんな塩梅で取り込めばよいのか。電子紙芝居みている客にもいろんなお人がいるだろ?こっちが言うこときいているばっ   かしだと差し障りもでてくるじゃあねぇか。お上の手前もあって良い知恵が浮かばねえんだな。

八兵衛: じゃ、なんですかい?和宮さまに揚巻もいれば八百屋お七も見てなさる、てな具合で?

ご隠居: まあ、そんなところだな。

八兵衛: ご隠居、そりゃあ、いけねえ。そんだけのお人が集まっちゃあ、なんだか分からねえが、身がもたねえ。いや、あっちだってすぐに倦   んじまう。

ご隠居: そういやぁ、上方の九鬼って偉い蘭学者が、『完全なる合同を遂げて緊張感を失う』って具合になると、なんともいえぬ魅力がな  くなっちまう、なんてぇいってたなぁ。

八兵衛: あっしなんかが考えてもわからねえ。とにかくやっちまって、野暮ならあきらめる。
粋なら続ける!それが、江戸っ子の意気地ってもんだ。

ご隠居: なるほどねえ。お前さん、いつの間にかすっかり垢抜けしちまったな。うだうだ言ってても始まらねえか。ようし!

 

稲井英一郎(いない えいいちろう) プロフィール
1982年TBS入社。報道局の社会部および政治部で取材記者として様々な省庁・政党を担当、ワシントン支局赴任中に9/11に遭遇。
2003年からIR部門で国内外の株主・投資ファンド・アナリスト担当
2008年から赤坂サカスの不動産事業担当
2010年より東通に業務出向。
趣味は自転車・ギター・ヨット(1級船舶免許所有)、浮世絵など日本文化研究。
新しいメディア・コンテンツ産業のあり方模索中。

 

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