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20122/13

「21世紀的テレビ論のために-テレビは死んだか?…を巡る議論を乱暴、かつ独断的に総括する-」 前川英樹

山脇クンポストを読んで「何だ、エジプトの現実は、見事にぼくたちの議論を超えてしまっている」と直感した。そこには、テレビ的可能性がネットの可能性として示されている。テレビがネットに乗り越えられた、ということではない。18 days in Egypt」は、エジプト各地で大規模な反政府デモの起きた2011年1月25日から、ムバラク大統領が失脚する2月11日までの18日間の記録を残そうという試みである。
作り方はカンタンだ。「18 days in Egypt」のサイトを訪れ、自分がいた場所・時間・写真・動画等をアップしていけばいい。フェイスブックやツイッターやユーチューブといったソーシャルメディアと連携させ、そちらからアップすることもできる。

(以下、太字あるいは斜体は引用者前川による)

このどこにテレビ的可能性があるかといえば、アップされている短いデモ動画を見ればわかる。その映像は、テレビ的作法(モンタージュと言ってもいいだろう)が基本になっている。「誰でもが表現者」というデジタル・メディアにおいても、カメラを通す映像作法の基本は、テレビジョンが積み上げてきたものなのだ。ドキュメントとはそういうものだろう。将来、テレビ的方法を乗り越えてWeb的映像表現が登場するかもしれないが、当面(多分、かなりの間、と思われる)はこうしたテレビ的映像文法は、無意識的に「誰もが表現者」である表現者たちに浸透していて、それによってWeb上の映像は制作されるだろう(註)。テレビが蓄積してきた方法は、フィルムドキュメントより易しく(ツール操作の易しさに繋がる)、そこには言語と映像の距離の近さという理由もあるだろう。また、テレビが“ケ=日常”のメディアとして生きてきたことによる、「見られ易く作る」ことを、意識してきたことの結果と考えることもできる・・・但し、テレビはそれを過剰に意識し過ぎて「分かられないことの大事さ」を喪失してしまったのだが。いずれにせよ、「ソーシャル化されたドキュメンタリー」は、<ソーシャルのテレビ化>でもある。このことは、以前にも「あやブロ」に書いた。「『ただの<ナウ>にすぎない』から『近代の超克』まで」
だから、エジプトのテレビが現在どういう状況におかれているか知らないが、もしそれがテレビとして機能しているならば、この「ソーシャル化されたドキュメンタリー」は、テレビ番組としても価値を持つだろう、3.11のプライベート映像がテレビドキュメンタリーとして再生されたように。ネットとテレビの相互乗り入れ(入れ子構造)は、ネットからのベクトルとしては間違いなく成長している。問題はテレビだ。

註:もちろん、他方ではデジタル技術は、そのようなテレビ的方法によらない表現(特に、カメラを通さないバーチャル映像)は、全く別の展開をするだろう。

と、ここまで書いて志村さんポストが来た。すると、そこにはこう書いてある。
スマホやタブレット上には、今まで紙やテレビが届かなかった人たちがたくさんいる。国家を担保した権威が届かない人たちだ。彼らは
IT的情弱かもしれないが、経済的社会的には全く弱者ではない。管理を超え、国境を超える外部の人たちである。こうした人相手のメディア・コンテンツは今までの文法では作れないだろう。だからこそ、作り手の遊民的感覚が重視される。
細かいところに異論はある。テレビは(免許による)国家が担保した権威と不可分だか、常にそこから逃れようとするモメントを内在させていて、それが機能するかどうかが『現在にすぎない』というテレビ的存在証明の別れ目であること、また志村さんの文脈から「彼らはIT惰弱」と言えるのかどうか、など。しかし、ここではそれをおくとして、問題は「こうした人相手のメディア・コンテンツは今までの文法では作れないだろう。だからこそ、作り手の遊民的感覚が重視される」というところをどう読めばいいのだろうか、ということだ。
多分、それはこういうことだろう。「今までの文法では作れない」といっても、白紙から何かが立ち上がるものではない。メディアであれ、コンテンツであれ、文化・文明というものは、先行するそれらをどのように取り込み、どのように消化=昇華するかということの蓄積だと思われる。だから、Web上の動画がテレビの文法を基本にしたからと言って、そこに成立するコンテンツが、例えばテレビの文法のままということなはならない。それは、20世紀ではテレビが映画や新聞とどのような関係したかということとある程度相似する。但し、Webという21世紀的なコミュニケーションのあり方は、「ある程度」を超えて「革命的」に及ぶであろうが、関係性の問題としては「相似」と言って良いであろう。

さて、山脇&志村ポストに出会わなければ、どういうことを書こうと思っていたのかといえば、実は以下のように始めようとしていたのだ。
・・・ここのところのテレビを巡る「あやブロ」のキャッチボールはなかなか凄い。ぼくの「テレビは死んだか?」レポが発端のようだが、ぼくの意識の中ではその前(昨年末)の『人間はボートを漕ぐように背中から未来に入っていく』―重延浩氏の<テレビジョンは『状況の時代』である>を読む」に遡って整理する必要があると思っている。
ブログのポストは、その時々の意識が強く作用するので、前の、あるいは後のポストと論理的に整合していないこともある。だから、ときどきこういう形でチェックを入れることも大事なのである。・・・という風に。
うん、やっぱりこういうこと必要だ、続けよう。

まず、そもそもの重延テレビ論のポイントは「崩壊するとすれば、それはテレビジョンの一時代の構造であり、テレビジョンそのものではない」という一言に尽きる。その上で、前川ポストでこう続けた。「こうした認識の、それこそ『原点』には、彼のテレビ経験としての『事象を生放送で見たという記憶』があり、それは<3.11>に、そして北朝鮮からのワールドカップ中継に繋がっていて、『(これは)ウェッブが決して越えることが出来ないテレビジョンの独創的価値』だという。」
ということは、博報堂の新妻氏が鋭く指摘した「テレビは一度死んだと思った方が良い。そこから“テレビとは何か”という根源的問いに到達し、それがテレビのクリエイティビティー生む」という認識は、「テレビジョンそのもの」の「独創的価値」の発見に繋がる。
これに対して稲井論は、「『テレビは一度死んだと思った方が良い』という命題を自分なりに評価するとしたら、メディア機能としては問題がそれほど見当たらないので、『過去の成功体験をいったんリセットすることで常にイノベーションに挑戦する心構えが必要だ』という解釈に行き着きます。テレビがインターネットに適わなかった点は、番組・編成内容や創造性・オリジナリティなどの面も含めて、イノベーションに自ら向き合う本気度ではなかったでしょうか。それは、己の敵をきちんと見据えなかったからだと思うのですが。」という。つまり、「テレビジョンの一時代の構造」の有効性を肯定しつつ、しかしイノベーション能力の欠如という点で、やはりテレビの危機的状況を認めている。
稲井論への「返歌」であることを意識したと思われる氏家論は、「テレビは一旦死んだと思おう。そしてこれから全く新しいテレビを創り出そう。テレビの制作現場の諸君、君たちは歴史の中でもめったに出会えない極めて面白い経験をしようとしている。新しいメディア、『テレビ』の開拓者として。」とする。これは、稲井論への反論ではなく、現場的イノベーションへのエールであり、構造としては稲井論の補強という関係にあるといってよい。

こうして見ると、まさに公開された仲間内のやり取り で書いたように「単純な『テレビ崩壊論』も、単純な『テレビ擁護論』も既に無効で、新たなテレビ論を作るべきだということでしょう」ということになる。
しかし、話をそんなにうまく、ニュアンスや力点の置き方の違い程度に整理してしまっていいかといえば、もちろん良くない。
では、何が問題なんだろう。
もう一度論点を<前川的>に括りだしてみよう。

  1.  テレビはメディアとして簡単に崩壊しない。(稲井論)
    「放送文化を守りたいなら、伝送路の哲学を守るべきである。その哲学とは、一方向性だ。ネットと同じことはしないことだ。」(志村論)
  2. 但し、「テレビジョンの一時代の構造」(重延論)あるいはそれを体現しているテレビ局とテレビ産業の仕組みは崩壊する可能性がある。
  3. それを漠とした可能性としてではなく、論理的仮説として「テレビは崩壊した=死んだ」と想定するところから、「テレビとは何かという根源的問い」に踏み込むことが、テレビのクリエイティビティーを再生させる。(新妻・氏家論)
  4. それがテレビ・イノベーションである。その力をテレビは持っているか。(稲井論)
    つまり、ネットの世界のイノベーションが直線的であるのに対して、テレビ・イノベーションは屈折的(Double Negation)なのだ。それは、テレビが一度頂点に立ってしまったからである。
  5. 一方、世界では「18 days in Egypt」のように、ドキュメンタリーのソーシャル化が始まっている。(山脇論)
  6. しかし、そこではテレビが構築してきた映像の方法が、Webコンテンツの制作の基礎になっている。その意味で、テレビ的なるものは崩壊も解体もしない。
  7. 「入れ子構造」は、ネットの側では成長のベクトルが確実に働いているのに、テレビの側からはまだそこが見えてこない。これもテレビ・イノベーションが弱いことの表れである。

概ねこんなところだろう・・・が、何かが足りない。
ぼくの個人的関心からいえば、ここに入ってこない論点は「思想としてのテレビジョン」という問題設定だ。このことは、「『思想としてのテレビジョン』と『批評としての生き方』―河尻さんポストへの返書の<序>―」として書いた。
そのなかで、今野勉氏の「グーテンベルク以来のメディア革命の中で」(TBS「調査情報」No.504)について書いた部分の要点を抜粋して、「前川論」とする。

問題は、活字であれ、放送であれ、近代のマスメディアがベネディクト・アンダーソンのいう「均質な時間」(放送の場合は、特に「共時性」による)を構成することで近代国家における<国民>を生成してきたこと、そしていま電話系(1:1)の発展であるインターネットによって、人々が時間の異質性=多様性を取り戻すかどうかという局面に来ていること、その構造あるいは関係性にさらに私たちは踏み込むべきだということであろう。世界の各都市で起こっている“叛乱”から目が離せないのは、フェイス・ブックなどのネットワークの存在と不可分だからなのである。

ここには、「国民」/「遊民」の関係も視野に入れて、ぼくなりのテレビとネットの社会的関係の意味を意識したつもりである。
その上で、次のように書いた。

今野勉さんが「思想としてのテレビ」について、<テレビ固有の表現形式を追い求める行為>という切り口で語っている。もちろん「思想としてのテレビ」の原点はそこにある。・・・(略)・・・そうであるとして、「思想としてのテレビ」が踏み込むべきは次の三点ではなかろうか。
(1) テレビが向き合うのは媒体=メディアとしてのインターネットではなく、ソーシャル・ネットワークというコミュニケーション空間であること。このことは、漠然と理解されているとは思うものの、より明確に論点とすることで、テレビは自分が何者であるかを確かめることが可能となるであろう。
(2) ソーシャル・ネットワークにおいても、「思想としてのソーシャル・ネットワーク」というテーマがありうるか(・・・ありうるはずだ)、それをソーシャル「側」(何をもって「側」というかも多義的なのだが)がどう提起するかはいざ知らず、テレビ側からアプローチすること。これは、テレビジョンが現実を乗り越えるために、(テレビジョンの)「思想」として必要だと考えられるからだ。
(3) コミュニケ―ションの場が存在するということは、かならずそこに表現=創造性が成立するのであって、ソーシャル的クリエイティビティーもまた成立する。「ケータイになくてテレビに有るもの」としてのクリエイティビティーではなく、ケータイを含むソーシャル・ネットワークにもクリエイティビティーがあればこそ、テレビジョンのクリエイティビティー、つまり「テレビ固有の表現」が大事なのだ。

(2)について補足しておこう。
<3.11>の直後に、ネット通じて状況と情報と個人行為>」が同時進行的に展開された。(あやブロ「3.11、ソーシャルの側から」 ①(河尻亨一)
これは、「テレビではほとんど不可能に近く、まさにウェッブの時空であればこそ可能なこと」なのである。このことを、テレビは「思想」としてどう考えるか、それが「テレビとは何か」の21世紀的問いなのである。

いま、ビジネス論でもなく制度論でもなく組織論でもなく、「思想としてのテレビ論」が不在なのだ。思想としてのテレビジョンを「テレビ固有の表現形式を追い求める行為」(今野勉)というが、その「行為」のなかには「テレビ固有の存在理由を追い求める」ことも含まれる、とぼくは思う。
だから、最後に次の言葉を書き留めておきたい。
「私にとってテレビジョンとは、私と私以外の現実との関係をかえる一つの<方法>であったし、今なおしかりである。疾走しながら叫んだいくつかの断片を提示することもまた、<私にとってのテレビジョン>にほかならないのだ。」(村木良彦「ぼくのテレビジョン―あるいはテレビジョン自身のための広告―」田畑書店 1971年)
もはや、疾走どころか重い足取りで歩きながら呟くことくらいしかぼくには出来ないが、それでもその断片を提示することが<ぼくにとってのテレビジョン>にほかならない、とやっぱり思う。

思想のないテレビとテレビ論なんて!
そうであるとして、いまのテレビには“Double Negation”どころか“Three Cushion”くらい必要だと覚悟しようではないか。

 

それにしても、こんな議論が出来る「あやブロ」は、“場”としてなかなか悪くない。

 

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール

1964年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

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