「テレビは死んだ」論を考えてみた - 氏家夏彦
前川せんぱいのポスト「“テレビCMは死んだか?”―カンヌ国際広告祭が国際クリエイティビティー・フェスタに変わった意味」、そして稲井さんの「どっこいテレビは生きている。でもテレビの敵ってなんだろう」のあやをとってみる。
「テレビは死んだ」というフレーズは、昨年の週刊ポスト(2011年11月11日号)の特集タイトルで登場した。2年半前にも『2011年 新聞・テレビ消滅』という新書(佐々木俊尚著)が出版され話題になり、日経ビジネスが「テレビ 明日なき戦い」、週刊ダイヤモンドは「新聞・テレビ 勝者なき消耗戦」という特集を組んでいる。タイトルだけ見ているとテレビは既に絶滅していてもおかしくない。で、テレビは本当に死んだのか・・・
まずテレビを広告媒体として見ると、インターネット広告に市場を奪われつつある現実はあるが、それよりソーシャルメディアによって消費者の購買行動が変わってしまった(今も変わりつつある)ことのダメージが大きい。
かつてAIDMA(Attention(注意)→Interest(関心)→Desire(欲求)→Memory(記憶)→Action(行動))といわれた消費行動は、AISAS(A→I→Search(検索)→A→Share(共有))となり、今はSIPS(Sympathize(共感)→Identify(確認)→Participate(参加)→Share & Spread(共有・拡散)となったとされている。共感も拡散もソーシャルメディアによってもたらされた。
自分が買い物する時の過程を思い返してみる。例えば本を買う場合、きっかけとなる最初の情報はFacebookやTwitterから得る事がほとんどだ。その上で、Amazonや楽天ブックスのレビューを参考にして購入に至る。パソコンやカメラなどちょっと高いものは価格.comで比較、レビューを参考し、メーカーのHPで確認した上で、ECサイトでユーザー評価を参考に信頼できて安い値段を出している業者から買い、使った感想をSNSに書き込む。もちろん商品の認知度を上げる力は、稲井さんのポストにあるようにテレビCMが圧倒的ではあるが、かつてに比べれば購買につなげる力は急減しているのを認めざるをえない。
若者のテレビ離れに関しても、NHK放送文化研究所の「放送研究と調査・2011年12月号」に明確なデータが記載されている。2010年の世代別テレビ視聴時間(一日当たり)を10年前と比べると、13~19歳では、女性は26分短い1時間44分、男性は18分短い1時間46分。20代は、女性が48分も短くなり2時間13分、男性は19分短い1時間56分。30代も女性は44分短い3時間18分、男性は24分短い2時間20分となっている。テレビ離れは若者だけではなかったのだ。これに対して70歳以上になると女性は23分長い5時間31分、男性は22分長い5時間57分と超長時間視聴をしている。全世代平均ではテレビ視聴時間はほとんど変わらず3時間半を超える長時間視聴が続いているが、これは超長時間の高齢者人口の増加が原因だとしている。
また主要テレビ局の視聴率経年変化をグラフにしているサイトがある。テレビ局の決算短信を元に作った労作だが、これを見ても視聴率の低下傾向は明らかだと言わざるを得ない。(Garbagenews.com 主要テレビ局の複数年に渡る視聴率推移をグラフ化してみる(補足編)(2012年1月時点版より)
テレビにとって悲観的な現状データが続いたが、今後についても懸念されることがある。全世代の中で唯一テレビの視聴時間を増やしている高齢者層だが、インターネットをまだ使っていない高齢者こそ、実はソーシャルメディアの有望な潜在的未来のユーザーなのだ。お年寄りは行動範囲が狭まり人との付き合いが減り孤独感を感じている。そんな老人がソーシャルメディアを一旦使ったら、ハマるのは確実だ。たくさんのキーが並ぶ普通のPCはとっつきにくいだろうが、タブレット端末などは考えてみれば高齢者でも十分使える。そうなればテレビの影響力はさらに低下する。
そもそもソーシャルメディアを含むインターネットは、既にメディアを超えた環境として人間の生活を取り込みつつある。かつてテレビは新聞と共に、世の中に対し絶大な影響力を持っていた。しかし今の時代、その影響力は急速に衰えている。特に東北大震災や原発事故を経て、いわゆるオールドメディアをリスペクトしてくれる人は少なくなっている。もちろんテレビ放送がなくなったりすることはないが、これまでのテレビはやはり一度「死んだ」と認識することが必要なのではないか。その認識を出発点としない限りテレビの未来は見えてこないのではないだろうか。
重延 浩氏がテレビマンユニオンニュース(No617. 2011.11.30.)で、圧倒的な媒体力を持つテレビについて、『もし、今、そんな媒体が白紙の状態で生まれたら、それは革新的媒体・・・ネットを越える媒体として、全く異なる形のテレビ構造を構築しただろう・・・テレビという媒体を白紙で考えれば、驚くべき媒体なのだ。』と、前川せんぱい曰く“目から鱗が落ちる指摘”をして下さっている。(参考:前川せんぱいの昨年12月25日のポスト)
今、テレビに、テレビの中の人たちに求められているのは、一度死んだつもりになって、全く新たな発想をもとに生まれ変わることなのではないだろうか。これまでの経験をリセットして、もう一度、テレビとは何かを真摯に問い直すことなのではないか。
そんなとき、意識しなくてはならないことがある。その参考になるのが、糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」の糸井さんと佐々木俊尚さんの対談に書かれている。ちょっと長いが、糸井さんに快くご承諾いただいたので引用してみる。
この対談の中で佐々木さんは、『ネットの世界で新聞や雑誌の(スタイルで)原稿を書くとすごく違和感がある・・・何が違うのかというと・・・閉鎖性なのかなと。新聞とか雑誌とか、ある種のアカデミズムを持つ文章って、なんか閉じた小宇宙みたいなところがあって。・・・ひとつひとつが完結していてそのまわりをピカピカに磨いて「できましたよ」っていう感じなんですよね。だから完成されてはいるんだけど、広がりもないし、すごく箱庭的になってしまう。』と述べている。佐々木さんは新聞やテレビや広告業界に対して厳しい物言いをしているので、敬遠する方も多いが、この発言はテレビにも当てはまるのではないだろうか。これからのテレビとは何かを考える上で大切なポイントだ
さらに経営レベルもやらなければならないことがある。今こそ「旗印」を立てることが必要不可欠なのではないか。(参考:前川せんぱい昨年9月7日ポスト[内田樹さんの「最終講義」を読んで『旗印』について考えた・・・])。
富士フィルムと経営破綻したコダックの違いも参考になる。コダックはデジタル化が進む最中に、特許という過去の知的資産を売って生き延びようとした。防御のための選択と集中だ。一方、富士フィルムは経営トップの決断のもと、自社の技術を洗い直しどう生かせるのかを検討、その結果、銀塩フィルムとは全く異なる医療事業や電子部品などの成長ドメインを生み出した。
フィルムメーカーにとってデジタルカメラ登場という激変は、今のテレビと同じなのではないか。これまでのやり方が通用しない状況の中で、どこを目指して走ればいいのか、旗印を立てなければならない。
テレビの現場も、この1年間で強い危機感を感じるように変わってきた。年に1回、局内の世代・セクションを越えた集まりを開いている。1年前はテレビの危うさを話しても「また大げさな!先輩、心配し過ぎですよ」としか受け止められなかった。しかし先日の集まりでは、若手も中堅も不安や焦燥感、戸惑いを感じているのがひしひしと伝わってきた。彼らはこれから本当に苦しむと思う。しかしそれは生みの苦しみだ。テレビは一旦死んだと思おう。そしてこれから全く新しいテレビを創り出そう。テレビの制作現場の諸君、君たちは歴史の中でもめったに出会えない極めて面白い経験をしようとしている。
新しいメディア、「テレビ」の開拓者として。
(最後の部分、上から目線でゴメン)
氏家夏彦プロフィール
1979年TBS入社。報道・バラエティ・情報・管理部門を経て、放送外事業(インターネット・モバイル、VOD、CS放送、国内・海外コンテンツ販売、 商品化・通販、DVD制作販売、アニメ制作、映画製作)を担当した後、2010年TBSメディア総合研究所代表。フルマラソンでサブ4を続けるのが目標で す(次の3月は危ない)。
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