あやぶろ/OLD

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20112/15

「メディア・情報・<場>…志村&河尻ポストへのコメント」① ― 前川英樹

 体系的、包括的に語るより(そもそも、そんなことはここでは止めた方が良い)、個別に< 気づき>とか< 思い>をコメントする方がブログ的だろう。それらをどう組立てていくか、それは夫々の書き手の仕事だ。だが、阿部風にそして氏家風に言うならば、その組立ての過程もブログ化せよ、ということになるだろう。

                      (Ⅰ)
 まず、2/8の志村さんのポスト(ポストっていうんだ!)について。
 原稿段階で一読した時、「なんか論点がずれてるな」と思ったのだが、読みなおしてそうでもないのだと思い直した。ただ、いつもの志村さん的明快さに比べて思考錯誤の経緯が感じられたので、そんな風に思ったのだろう。それにしても、< メディアノート>を相当まめに読んで頂けたようで恐縮している。
 さて、< 気づき>と< 思い>をメモしてみよう。

1.「(テレビは)その可能性を突き詰めているのだろうか」と言われれば、「突き詰めていない」、というのが答えだ。突き詰めていれば、< 今>このことが論点になっていないだろう。

2.テレビは何故突き詰めなかったかといえば、(身も蓋もない言い方だが)経営者も制作者サボったからだ。”楽ちん”を選んだからだ。楽をしているうちに、ネットに先回りされて、答えを手放してしまったのだ。

3.しかし、それでもどこにテレビがメディアとして存在し、機能する根拠があるかといえば、現実が権力の時間管理を超えてしまう時に、その管理システムとしての< 免許>のもとで情報を送りだすというパラドックスそのものにある。どのメディアよりも強く、免許制であるが故にテレビはメディアとしての緊張を構造的に組み込んでいるのである。

4.だから、”楽ちん”しようがサボろうが、「可能性を突き詰める」ことから、テレビは逃れられない。

5.カイロからのNHKの中継で、「NHKの支局の隣?にあるエジプト国営放送の建物の前に、国営放送の報道に抗議する人々が大勢押し掛けてきています…」というような特派員コメントがあったが、この特派員はまさにそのパラドックスに立たされたテレビの現実を見たはずだ。そのとき彼はなにを思ったのか。いや、彼はそういう意味では何も見なかったのか。NHKだからこそエジプト国営放送の隣にいられたのではないか。出来れば、同じ建物にいたかったのであろう(多分、民放各局も)。NHKは国営放送ではない。しかし、ナショナルフラッグを背負っていると国際的に認知され、そうあるべきだとNHKも思っている。

6.志村さんは「(送りだされた情報が)視聴者同士で共鳴、共有されなければ、テレビが担保された責務は完了されとはいえない」言い、そしてまた「インターネットはしなやかに戦う」として尖閣映像流出の例を挙げる。そこに、情報の解放という意味があるというのはそうであろうが、あれは戦いだったのか。何とどう戦ったのか。そこをそんな風に詰めないことを「しなやか」というのだろうか。

7. “しなやか”な、あるいは”したたか”な戦いというのなら、エジプト政変におけるソーシャルメディアはどうなのだろう。各メディアは、エジプト情勢とソーシャルメディアについて書き、語っている。まさにネット上で交わされた情報が「共鳴、共有」され、増幅されたということだろう。そして、人々は街頭というリアルな場所に出て行動し、最大のリアルである< 死>を迎えた人々もいる。

8.映画「アルジェの戦い」(1966年・日本公開1967年)を思い出した。フランス植民地だったアルジェリアの独立闘争を描いた名作だ。数度の蜂起も徹底的に弾圧されて、沈黙の数年の後に、突然湧き出るように人々が走り出て街頭を埋め尽くすラストシーンは圧倒的だった。マスメディアもなく、ましてネットなどこの世にない時代で、情報手段は口コミと紙だっただろう(印刷所を確保せよ!とは、古典的な革命運動の鉄則だ)。その情報が現実の< 場>に人々を押し出してアルジェリアは独立した。そのアルジェリアでも、今また民衆のデモが起ころうとしているという。

9.今、日本のネット上の情報はリアルな< 場>に人々を動かすだろうか。それが、「秋葉原事件」では悲しい(ここから、日本の< 近代性>のアポリアに話を進めることもできるだろうが、それは河尻さんポストの方の論点か)。

10.結局のところ、情報とは< 情報空間>と現実の< 場>との間に形成される関係性として意味を持つのであろう。情報空間もまた一つの現実であるとしても、である。

11.「テレビとインターネットを組み合わせれば、『時間の空間性』が完結できるのではないか」というのはその通りだ。僕は、ほとんどそのことしか語ってこなかった。志村さんが< メディア・ノート>から読みとった< 系>という発想もそこにある。そうであればこそ、< 今>改めて、テレビになにが可能かを「突き詰め」なければならないということも。

12.そして、「表現・制作でしか個の衝動は伝えられない」というのもその通りだ。このあたりは、今までの志村コメントを踏み越えるものとしてとても良い。だが、「個の表現として、必要なのは衝動であって手段、メディアではない。結局メディア論を語ってもなにを伝えることはできない」というのはそうだろうか。表現はメディアと不可分だ。言語や身体それ自体が表現と不可分であるように。そこにメディア論が成立する。

13.表現と乖離したメディア論は空疎であるが、メディア論もまた表現として成り立たせることは可能であろうし、< 表現>を撃つメディア論は表現のために不可欠である。あらゆる批評がそうであるように…ネ、須田さん。

14.「国家安全保障システム」としての放送(情報)と市場性の関係について、志村さんのもう少し踏み込んだ考えを聞いてみたい。

                       (Ⅱ)
 河尻さんポストへのコメントを読みながら、志村さんが適宜ピックアップしてくれた< メディア・ノート>を思い起こし、自分の問題意識と河尻さんのそれがどこでオーバーラップするのかと考えた・・・次回へ続く。

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