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9・4【伝達と表現 マスとソーシャルメディアの危うい関係、そしてスマホ3.0】志村一隆

 

 

国家との距離感

先日、中国人の友達と遊んでいたら、駅の切符売場でパスモの領収書を拾って「2万円ゲット」と言う。家業の節税に使うのだ。中国の人と付き合っていると、国家との付き合い方や距離感に逞しさを感じる。
韓国で映像ビジネスをしている知人は「なんで、あんなことするの」と怒っている。領土問題でなく、自分のビジネスへ直接被害があったから怒っている。
メディア報道だけで竹島や尖閣問題を考えるのと、リアルな友人との関係から感じることには、とても隔たりがある。これっていったい何なのか?

 

稲井さんの「知ると考える」論と「伝達と表現」

稲井さんの「知ると考える」論(8/24ポスト)は、とても面白かった。稲井論の「知ると考える」を、送り手=メディアに当てはめると、「伝達と表現」になるだろうか。「伝達」はストレート・ニュース、「表現」は芸術を含めた状況分析の表出。
そこで、メディアが何かの「伝達」手段に留まるなら、受け手は、情報を「知り」ながら、「伝達」されない何かがあるのではないか?と「考える」必要があろう。
たとえば、今回、李明博大統領が上陸する映像を見るまで、自分は竹島に韓国の人が住み、「韓國領」という碑があるなんてことは知らなかった。(NHK衛星放送の朝のワールドWaveで流れる韓国メディアのニュースで知った)
竹島は無人か少なくとも日本人が暮らしている島だと思っていた。それが韓国の人がもう住んでいる(韓国の映像も、それが切取らなかった部分があることを想像しなければならないだろうけれど)。なぜ、そういったことを自分は知らなかったのか。メディアには出てなかったのか。出ていたとすれば、なぜそれに触れることがなかったのか。「考える」には、とてつもない想像力が必要だ。

 

マスとソーシャルの危うい関係 -前川センパイの問題提起と境論の<鎖>

マスとソーシャルの関係は「伝達と表現」で4つに分類できる

 

前川センパイ「(8/30)国家・メディア・<鎖>」についての論点整理/未整理とあれこれ思ったこと」からの指摘。

ソーシャル・メディアもまたメディアの持つ構造的なあるいは本質的な問題に漸く向き合うところまできたということだ。<中略> 夫々のメディアが自らに「自分たちは何者か、そして何が可能か」と問い返すところから始めなければならない、それが今の<メディア的テーマ>なのだ。

前川センパイの問題提起で重要性は、ソーシャルメディアとテレビ(マスメディアも)がお互いに影響し合いながら「自分は何者か?」を問わねばならないことを指摘している点であろう。また、言外に両者は、問い続けなけながら(考える)、「表現」しなければならない点を言っているのではないか。
マスとソーシャル両者の関係性を情報の「伝達」と「表現」で解いてみると、下記4パターンが考えられる。

①テレビ「表現」-> ソーシャルメディア「伝達」
②テレビ「表現」-> ソーシャルメディア「表現」
③テレビ「伝達」-> ソーシャルメディア「伝達」
④テレビ「伝達」-> ソーシャルメディア「表現」

「伝達」とは、情報をただメガフォン的に広めること、「表現」は情報の分析、知見の表出とする。
①から④で、社会的にいちばん危険な状況(モノ言えぬ雰囲気になる)は、③であろう。テレビが「伝達」した情報がそのままソーシャルメディアでも「伝達」される状態だ。大本営発表、震災後のニュースなど、ナショナリズム、ヒステリック、イナゴの大群(境論の言葉)である。ソーシャルメディアは、なにか(国家?)の第2「伝達」手段となってしまう。

パターン③の変形震災後のソーシャルメディア空間は、テレビ(マスメディア)のセカンド・オピニオン(反マスメディア)として作用した。ただ、そのときは情報源をマスメディアから政府に変えただけで、「伝達」手段としての機能はそのままだった。
結局ソーシャルメディアが「伝達」手段に留まるのであれば、「自分が何者にもなれない(考えない)」存在であり続けるだろう。それは、「意見の多元性を保てない情報空間」=境さん論の<鎖>(8/31ポスト)が生まれる要因となる。
少し気になるのはソーシャルテレビの方向性だ。テレビの番組やニュースをネタにつぶやくことが多いというデータは、境論の<鎖>が助長するのをソーシャル空間が自ら助けている傍証になってはいないか。
ロンドン五輪で、選手がツイッターで画像を上げたのは、ソーシャルメディアが「表現」する場に近づいたことになるのではないか。ロンドン五輪がもたらしたメディアの本質的な変化は、リアルな観客やテレビ視聴者がソーシャル活動をするのではなく、被写体であった画面の中の人がソーシャル活動をした点にある。(志村7/31ポスト参照)

 

スマホ1.0-3.0は、ソーシャル1.0-3.0

スマホの拡大は、新たな時空間を持つメディアの誕生につながる

こうしたメディアの「表現」を巡る発展は、下記3段階を経てソーシャル五輪に辿り着いたと言える。

スマホ1.0 -> 一般人が情報(画像・映像)をアップロード、広告モデルで運営(Youtube)
スマホ2.0 -> 一般人をメディアがブランド化、制作者集団として利用(CNNのiReport)
スマホ3.0 -> 画面のなかの人が自ら情報をアップする(ツイッター、Instagramなど)

スマホ1.0-3.0は、ソーシャル1.0-3.0とも言え、両者は密接に結びついている。また、「表現」できるデバイスが手元に増えるほど、メディア変化の動きは早くなるのかもしれない。ただ、これは新しい動きが古い動きを代替する進化ではなく、新しきも古きも共存する「棲み分け理論」的な展開を見せるだろう。

 

北原さんの「ソーシャルメディアと格差社会」論

そんなことを念頭に、北原さんの「ソーシャルメディアを必要とする格差社会(8/28ポスト)」論を読むと、考えるなんて面倒臭えと思う人が格差の拡大と共に増えているのではないかと思えた。
富の無い人は、リアル生活でも国家を必要とする人たちだろう。境さんは、『人類はソーシャルネットワークで何を作れるのでしょうか?ジョン・レノンの夢想を実現するのか?次から次へと王蟲の暴走が起こる無秩序な空間ができるだけ?』と問いかけた。
この問いと<鎖>の自縛は、どう関係しているのだろうか。<鎖>はある種の秩序として作用してしまうのではないのだろうか?
それを防ぐには、何にせよ個々人が「表現」することが必要なのだろう。しかし、その「表現」するためには、メディアからの自立と、冒頭の知人のように国家と距離感を持った生き方(経済的な自立が必要だ)が必要なのであろう。

 

志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取 締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka

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