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20126/14

6・14【イイ当たり!ウ~ン、ファールか!!・・・志村さん、お待たせしました。<三角論>+αのあやとりメモです】前川英樹

 

 

まとまった<論>にする余裕がないので、メモ書きでご容赦。

1.「テレビ三角論」の絵は面白い。手書きなのが良い。こういうのも“オリジナリティーの一点性”の内だろう。先回りして言えば、こうしたアナログ性は量ではなく質なのだと思う。

 2.僕が「状況と情報と個人行為の同時進行」と書いたのは、河尻さんの3.11のメディア経験について書いたポストについてなのだが、この絵を見て思うのは、テレビとソーシャルの関係ししばしば語られているけれど、ここに電話・メールが加わってみると、[マス⇔ソ-シャル⇔パーソナル]という関係が見えてくることだ。なるほど、このほうがずっとソーシャルの位置が良く分かる。

3.真ん中の「空間・空虚?」というのは、「世界・世間?」とでもしたらどうだろう?「空虚」は河尻×須田×志村×前川「あやブロ」で話題になった「空腹か空虚か」を意識しているのかもしれないが、ここでは空虚は少しズレがある。いっそ、「身体」と置いてみると別の関係が見えるかもしれない。

4.「各メディアの均衡が取れた形、すなわち正三角形が幸せ」というのはどうかなぁ・・・。予定調和過ぎないかい?ま、ありえない状態をモデルにするというのも一つの方法だから、仮説としてはあるかもしれないけど。これは、好みの問題かもしれない。

5.ところで、そもそも「状況と情報と個人行為」といったのは、3.11.で河尻さんが(あるいは誰でも)<その時、何処で、どう体験したか><それを“3.11”(と後に呼ばれる事象)であるとどう知った=知らせたか><どういう行動を選択したか>ということが連続的に経験されていることを指している。だから、「あのとき、テレビが『状況』と『情報』を自律的に編集、発言すれば三角形は機能したであろう。しかし、テレビは、自分の情報発信について自信を失っているかのようにみえた。」というのは、志村さんの意識としてはそうなのだろうが、そもそもの書いた意図とは少し違う。志村さんとの間で、「状況」「情報」「個人行為」の意味するものがすれ違っているようだ。ただし、志村さんが自分のポストで書いているように「(ニューヨークにいながら)今、知らせるべきは原発事故のことではないか」という問題意識のありかからすれば、確かにそのようにもいえるだろう。

6.続いて、「それは、震災、原発の『状況』だけではなく、ソーシャルメディアの成立が大きかったように思う。その結果、我々はセカンドオピニオンを入手する手段を獲得した。」というのは、同感だ。そして、「それは、『状況』と『情報』に『個人行為』を取り込めたことで情報が空間として成立したことを意味しよう。その空間でテレビが『状況』をそのまま『情報』として流せば、権力のプロパガンダになってしまう。いっぽう、あまりにも独善的な内容であれば、情報空間に埋没してしまうだろう」というこの部分は、すぐには理解できなかった。そうか、志村さんが「個人行為=パーソナルメディアの情報行為」と読み込んだところから引き出される理解の仕方なのだ・・・いま、こうやって書き写しながらやっと分かった。

7.ここから、志村論は「展示」という権力行為を例示しつつ、テレビの機能をとらえようとしている。展示は、ローマ皇帝が民衆に与えるべきものであるパンとサーカスのうちのサーカスをいう。しかし、志村さんはテレビの行為は展示とは違う、何故ならばそこに「中の人」の視点が入っているからだ、という。しかし、「『中の人』の視点」というのは、ニュースの客観性への反問としてニュースは無限の主観で成立するという意味ではそのとおりだが、志村さんのいう「権力のプロパガンダ」に拮抗する関係として「『中の人』の視線」を取り出すのは無理がある。それが、テレビへの期待と善意であるにしても、だ。メディアに作用する力学はもう少し複雑でダイナミックだ。

8.「その上、ポスト3.11の情報空間ではさらに「個人行為」の視点も意識せざるを得ない。そんな複雑な作業を、一体誰が出来るというのだろうか」。ここも、もう少し丁寧に整理しながら書き込まないと無理が重なる。テレビジャーナリズムあるいはマスメディアの立ち位置の困難さはそのとおりであるとして、職業としてのメディアとは、常にこうした「複雑な作業」の意識化を抜きにしてはあり得ない。その複雑さの中にメディアとメディアで仕事をすることはあるのである。それを放置する怠惰さこそがメディアをダメにする。
「意識化」とは何か。テレビが<今>その「複雑さ」に対応しかねて自己分裂しようとしているのは、そのとおりだ。テレビにとって大事なのは、そのことをどうとらえ返すか、そのために自己をどのように<相対化>し、メディア環境の中で客観化出来るかであろう。

9.「『個人行為』と『状況』領域は『リアルタイム性』を持ちたがる。・・・リアルコミュニケーションは疲れる。息抜きが必要なのである」というところから、志村論はテレビに「息抜き」⇒「リアルタイムでは得られないモノ」⇒(かつて権力が「展示」とした官製エンタテーメントに代わる)テレビによる「提示」⇒エンタテーメント・コンテンツという価値の自己創出、という役割を見出す。

10.ウーン・・・、これってやっぱ苦しくないかい。テレビにエンタテインメントの役割を振るのは良いけど、もう少し論理の積み重ねが必要だ。それに、リアル(タイム)コミュニケーションが、パーソナル+ソーシャルだとしても、マスにリアルタイムがないわけではない(たびたび例に出す津波映像)。メディアのリアルタイム性と個が体験するリアルタイム性の相乗こそ<3.11のメディア状況>だったはずだ。

11.その上で「テレビは非芸術反権力」(「お前はただの現在にすぎない」)とは「テレビは時間である」という断言肯定命題の帰結なのであって、そうだとすればエンタテインメントという非芸術とライブ性(ポテンシャルな反権力)とは相反するものではない。「ザ・ベストテン」というリアルタイム・エンタテイメントは、ジャーナリズムであり、ドキュメンタリーでもあった。
現在、パーソナル・ソーシャル・マスのメディア関係全体として、リアルタイム性そのものが多層的なのである。

12.以上、「『展示』がよりかかるキュレーションやシェア、そして『状況』への脊髄反射はソーシャルに任せ、テレビは自らの価値を自分たちで作りだすしかない」という折角のエールを送ってくれたことを歓迎しつつ、「志村論に刺戟されたテレビについてのメモ(というより走り書きか)」である。

13.最初の絵に戻ってみよう。
三角形として図示したのは良いとして、三点を結ぶ関係として「テレビ」「ソーシャルメディア」「電話 メール」をそれぞれに対応させところに問題はなかっただろうか。「状況」「情報」「個人行為」を関係させるのは、「テレビ=マス」・「ソーシャルメディア」・「電話 メール=パーソナル」の全てであり、その関係は多層的なのだ。そこから、もう一度考えてみようよ、志村君。

(以下、次の志村さんポスト「表現とお金」についてのあや取りメモは、続編参照)

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

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