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20119/10

「あやブロ」を立ち上げて良かったね! -セミナー[TBSメディア総研 年次レポート 2010]・7つの論点- 前川英樹

[TBS メディア総研 Annual Report 2010]「テレビは生存のための進化を迫られている・・・よね!」という社内セミナーが開かれた。レポートそのものは経営提言を含む社内向けのものであるので、ブログ上の扱いは報告者の氏家社長(あやブロ管理人)にお任せする。僕が社長在任中にこうした場を設けたいと思いながら、なかなか実現できなかった。今回、この企画が実現して、80人近い参加者が興味深げに聞いていたのはとても良かった。「聞いてるだけ」で終わるかもしれないけど、メディア総研の仕事は「聞かせること」から始まる。確かにこの点では、「越えられたな」という思いがある。
特別レポートとセッションに参加して頂いた志村さんと河尻さんに感謝。お二人の話もパネルも面白かった。チョット時間が足りなかったけどね。いずれにせよ、「あやブロ」あってのセミナーの成功であり、「あやブロ」効果は大きい。「あやブロ」始めて良かったね、氏家君!
さて、セミナーの概要は氏家君にお任せし、また志村、河尻両氏も夫々何か書くと思うので、ここでは< 前川目線>による「7つの論点」を括りだし、議論の材料にしたいと思う。論点Ⅰ~Ⅲは問題提起役立った河尻さんの発言を、Ⅳ以下は全体の議論をベースに考えてみた。

□ 論点Ⅰ <「ソーシャルはメディアでない」ということが何故大事なのか>
「ソーシャルはメディアではない。ソーシャルはネットワークによるコミュニケーションだ」という河尻さんの提起は、そうかもしれない!と思いつつ、では、その意味するところは何かということを考え始めると、なかなか深遠な?問題に引きずり込まれる。
メディアとは何か。メディアという概念を「媒体」と直訳的にとらえることは意味がない。「メディア」には何らかの情報行為が含まれる。河尻さんが「メディアはメッセージ」という言葉を引き合いに出したのもそういうことだろう。しかし、そうであるとして、ソーシャルというコミュニケーションにおけるメディアは何か?という問いは成立する。
河尻さんは何故「ソーシャルはメディアではない」といったのか。メディアであるかないかということが何故大事なのか、ここはちゃんと考えてみよう・・・(2)に続く。

□ 論点Ⅱ <「メディアは制度である」とはどういうことか>
河尻さんは、「メディアは制度だが、ネットワークは制度ではない」ともいう。この場合の制度には二つの意味があるだろう。一つは、法制度としての制度、つまり国家が保障する存在・仕組みという意味での制度であり、もう一つは、エスタブリッシュメントとして、つまり社会的に認知されることで存在し機能するシステムとしての制度であって、それは多分に「人々が、そのようなものとして認める」という意識の問題が含まれる。マスコミは第四の権力といわれるが、この場合は、後者の延長と考えてよいだろう(放送の場合は、免許という法制度と社会的影響力との双方で「制度」として存在する)。
では、ネットワーク(この場合のネットワークとはインターネット上の情報ネットワークの意味)は制度ではない、ということにどういう意味があるのかといえば、もちろん<自由>である…と、言ってよいかどうか、それが論点だ。インターネットはツールだから、それそのものがエスタブリッシュにならないとしても、そこに成立するソーシャルなネットワークはエスタブリッシュと無縁であり、その情報空間は絶対的に自由であり、つまり非制度であり続けられるや否や。

□ 論点Ⅲ <「テレビの強みは今とつながること」であるか>
河尻レポの最後は「テレビの強みは今とつながること」だと、チャンとフォローしてくれた。優しいなぁ…。もちろんYesであって、これ自体は論点にならない。むしろ、「ネットは今とどうつながるか、それはテレビのそれとどう関係するか」というのが論点であるべきだ。論点(2)との関係でいえば、<制度的・今と非制度=自由な・今>との関係と言って良いのかどうか・・・多分、良いと思う、前川的にはね。
ついでの質問。カンヌでは、テレビを想定したCMは既になかったし、CMというカテゴリーではなくクリエイティブと呼ばれていた、という河尻レポートがあったが、そのことと「テレビはまだ可能性があって、それは今とつながることだ」という認識とどう関係するのだろう。広告?の世界でテレビは対象外になりつつあることと、テレビの強みは…ということの落差。

□ 論点Ⅳ <「ソーシャルは共感・共鳴の場」だとして、テレビの距離感とはどういう関係か>
ソーシャルの空間は共感・共鳴の場であり、それに対してテレビは視聴者との間にある距離があるという(氏家による提起)。それについて志村、河尻、とも異論はないようだ。
さて、ところで「共感・共鳴」とは、その場の感情・空気を共有する者の間で成立するのであって(例えば、参考:加藤典洋「さよなら、ゴジラたち」岩波書店)、それはそうでない者に対する排他性に通じる。もちろん、共同性とはそういうものだといえばその通りで、ソーシャルに対して「それは違う」と言っても始まらない。それよりも、ここでテレビメディアの距離感との関係を考えた方が良い。つまり、放送は、その特性として「不特定多数」の視聴者を対象とすることにより、個々の視聴者と距離が曖昧になる。曖昧になることで、排他性が薄まる。放送はそれで良いのだ。(この「距離」ということをTV=Tele vision=遠くのものを見(せ)る、の意味で考えることは可能か・・・という設問もある、念のため。)
では、木原君の言う、というより村木さんが言ったという(「ぼくのテレビジョン」にそういう記述があったか確かめてないが)60%論とはどう関係するのか。それはこういうことだろう。制作者(表現者、メッセージ送信者)として発想すれば、100%に伝わるより、60%の個々が夫々に受け止める方が、はるかに意味があるというのは当然だ。一方、放送というメディアの在り様は、不特定であることによる公約数型の伝達形式を取らざるをえない。このメディアの在り様と制作者の創造性との乖離こそ、放送の秘密であり、放送の面白さでもある。誰だって、特定の者としか関係を持たない(共同性の中だけで生きる)なんてことあり得ないのだから。
だから、「今にどうつながるか」ということと、「不特定多数との情報関係をプラスに捉える」ことが、放送の「強み」ではあるまいか。そうでないと、「お前はただの制度に過ぎない」ことになる。

□ 論点Ⅴ <「旗が立つのがメディア、そうでないのがソーシャル」・・・か>
内田樹さんの学校論にならって放送局も旗を立てよ、と9月7日の「あやブロ」に書いた。
今に関わりつつ、不特定多数に情報編集するのだから「旗印」は欠かせない。だって、どういう情報編集をし、どういうメッセージを出そうとしているかが分からなければ、不特定多数はメディアを選べないではないか。ソーシャルはそれ自体に旗印はいらない。旗は掲げるの個人だからだ。つまり、その意味でソーシャルはメディアではない・・・ということになる。なるほど、ソーシャルにおけるメディアとは、<私>つまり「ぼく」であり「君」である。かくして、ネットを巡るバーチャル性と身体性という二項対立は乗り越えられた・・・?で、いいのだろうか、河尻さん。

□ 論点Ⅵ <ハブは何処に成立するか>
ここまで来て思うのだが、この「あやブロ」でたびたび議論の的になったマスとソーシャルの<ハブ>は何処でどのように成立するのだろうか。というより、どう成立させられるのだろうか。ここまでに論点として来た、メディアとコミュニケーション、制度と非制度、共感の排他性と不特定の曖昧性、メディアの旗印と<私>という媒体、それらを組合せて<ハブ>を構築するのは、気力・体力・知力が試されて面白そうだ(+財力はいるのだろうか?)。

□ 論点Ⅶ <日本のソーシャルの基盤はオタク系か>
さて、最後に、ソーシャルとはそういうものだとして(・・・どういうものかは措くとして)、その「共感と共鳴」という構造は本質であるが故に、どの国でも共通のものであろう。そうでなければ、ジャスミン革命の連続性はこれほどではなかったであろうと推測される。
だが、この国でかつて「オタク」が登場し、それが層として、つまり文化として存在するようになったことが日本のソーシャルの特性となっているのではないか、それともそれは見当違いの推測なのか。
日米安保体制化の高度成長と「革命の消滅」が生んだのであろうオタクは、それ自体当初は、自己情報の発信の術を持たなかった(だからオタク化した)。しかし、彼らがネットと出会ったとき、オタクの共同性が生まれ、それが今の日本のソーシャルの基盤になっていないか。オタクから遠く離れたぼくの眼には、そのように映る。日本のソーシャルそのものが「ガラ系」ということなのか。で、「ガラ系では、何故だめなのですか」という問いに、それは重なる。

                        ■

以上、7つの論点だ。結構強引だった。疲れた。
でも、セミナーは面白かった。時間足りなかったけどね。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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