富士山からみえる過去・現在・未来①(稲井英一郎)
半分は江戸のものなり不尽の雪
富士山がユネスコの世界文化遺産に登録されて、世は富士山ブームだ。
テレビのニュースや情報番組でも、新聞雑誌でも、観光関係者の期待と皮算用、富士登山者の激増、入山料の試験的徴収のことなど、報じるにいそがしい。
しかし、ここではちょっと違う歴史の視座から富士山とメディアを考えてみる。
「半分は江戸のものなり不尽の雪」(素竜)
「名月や富士見ゆるかと駿河町」(立志)
「富士を見て忘れんとしたり大晦日」(宝馬)
これらの俳句は江戸中期の安永年間(1772~1780)に編纂された、俳句集「名所方角集」(めいしょほうがくしゅう)に集められた俳句だ。そしてこれを紹介したのは、明治から大正にかけて活動した作家の永井荷風である。
荷風は、江戸切絵図を持ち歩きながら、東京の路地裏を散策するのがすきだった。その荷風が大正のはじめに、消えゆく江戸の往時をしのびながら随筆の名文に残したのが「日和下駄(ひよりげた)~一名東京散策記」だ。
この最終章に、夕陽の美しい東京名所と東京からの富士眺望を書きつづり、眺望破壊が進む大正当時の状況を嘆いている。
“されば東京の都市に夕日が射そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんな事に頓着するものは一人もない。もしわれらの如き文学者にしてかくの如き事を口にせば文壇は挙(こぞ)って気障な宗巧(そうしょう)か何ぞのように手厳(てひど)く擯斥(ひんせき)するにちがいない”
随筆が書かれたのは大正時代のはじめだから、現代からすれば、まだまだ素晴らしい眺望や江戸情緒が残っていたに違いない。
しかし荷風の視座からみれば、東京の東京らしいところは富士を望めることだが、このような郷土美を気にする人がほとんどいなくなったというのだから、驚く。
逆説的に言えば、富士を江戸の町と一体で愛してやまなかったのは、明治以降の日本人ではなく、江戸の市井の人々だったことになる。
ちなみに荷風は英米との開戦に向けて国論が沸騰するなか、八紘一宇(皇室中心に世界を日本が統一するという思想)に対して「へそが茶をわかす」などと言って、距離をおいた数少ない作家のひとりだ。
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