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201212/7

12・7【「青い鳥」のパラドックス】稲井英一郎

青い鳥

「青い鳥」という童話はほとんどの方がご存知でしょう。チルチルとミチルという兄妹が幸福になれるという「青い鳥」を探しに出かける童話ですが、原作はベルギーの劇作家であるメーテルリンクが創作した戯曲(童話劇)であることはあまり知られていません。初演が1908年で、モスクワの芸術座で演じられ翌年に書籍が出版されました。この童話劇はメディアが何をめざすべきかについて考える材料を与えてくれる気がします。

 
モーリス・メーテルリンク(劇団四季のホームページより)

物語はクリスマスイブの夜に、兄妹のもとに妖女のベリリウンヌが突如現れるところから始まります。妖女は2人に対して、それを手にすると幸福になれるという「青い鳥」を探しにいくように依頼します。
いわれるまま夢の中の幻想世界に旅立っていくチルチルとミチル。
お供するのは、妖女がもっていたダイヤモンドの魔力によって命を吹き込まれた、光、パン、火、水、牛乳、砂糖の「精」たち。飼い犬や飼いネコも人間と会話できる「精」になって旅の道中を供にしますが、この精たちの運命は実は過酷です。

妖女

“このふたりの子供たちのお供をして旅に出るものは、みんな、旅が終わったら死ぬんだよ。”(邦訳~新潮文庫「青い鳥」堀口大学・訳より、以下同)

物語の冒頭で、精たちは実は死出の旅であることが妖女から告げられます。ひたすら人間への忠誠を誓う犬をのぞいてパニックに陥る精たち。しかし計算高い猫は、子供たちのいない席で他の精たちに策謀を持ちかけます。

ネコ

“あらゆる手立てをつくして青い鳥を見つけられないようにすることが、われわれの利益なのです。そのためには、あの子供たちの命ぐらい、危険にさらしてもやむを得ないと思うんです。”

このネコの企みは半ば成功し半ば失敗します。ご存知の通りチルチルとミチルは青い鳥を見つけられないまま夢の旅を終えて、両親の元に戻ります。
そして有名な結末ですが、チルチルは自分が飼っていたキジバトが以前よりも青くなっていることに気づき、

“これがぼくたちさんざんさがし回っていた青い鳥なんだ。ぼくたち随分遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな。”

と述懐して、物語は日常生活の中にこそ幸福をさがすべきという結論に達するのです。つまり、外部に存在する何かを待ち続けていたり、他人の力を当てにして幸福を見つけようと思っている限り、永遠に幸福は見つからないという「パラドックス」が物語の核心になっています。


メーテルリンクの童話劇を再現した劇団四季の舞台「青い鳥」
(劇団四季のホームページより)

 

アランの幸福論

この「青い鳥」のパラドックスは、メーテルリンクとほぼ同時代を生きたフランスの哲学者、アラン(本名エミール・シャルチエ、アランはペンネーム)が語る有名な「幸福論」と比較すれば、いっそう理解が深まります。

「幸福論」の語録(プロポ)の一節に
“自分の外の世界に幸福を求めるとき、幸福という形をしたものはけっして見つかるまい。”
という一文があります。(邦訳は合田正人明治大学教授、以下同)

別のプロポでは
“幸福はいつでも私たちを避ける、と言われる。人からもらった幸福についてなら、それは本当である。人からもらった幸福などというものはおよそ存在しないものだからである。”
という一節があります。

青い鳥さがしの旅に協力するお供の「精」たちの多くは、チルチル・ミチルを手伝う存在というより、冒頭にご紹介したように打算的で感情にまかせた行動をとりがちです。もちろん物語性を増幅する役割も担っているのですが、主人公にとっては、青い鳥をさがすうえであまりにも頼りにならない存在です。
人に頼り、何かを待つ他力本願では幸福になれないのであり、「笑う」「喜ぶ」「愛する」などの人間の営みを「意志の力」で実践することではじめて幸福になるとアランは説いています。

“幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ。”

 “人ごみのなかでちょっと押されたくらいなら、まず笑ってすますものと決めておきたまえ。笑えば、押し合いは解消する。”(幸福論)


(アラン~集英社文庫「幸福論」より)

幻想世界から帰還したチルチルとミチルも、身の回りのものすべてに確かな意思をもって笑いかけることで幸せを実感するのですが、偶然にも、まさしくアランの「幸福論」を実践する形となっています。

 

メディアと「幸福のバリューチェーン」

ところでメディア(マスも含む)がもたらすかもしれない社会の幸福とは何でしょうか。

それは「青い鳥」のパラドックスから想起すれば、メディアの形態、様式、技術規格ではなく、メディアという意志ある主体が自らの義務である社会的行為を実践した場合に感じることができる、ということになります。

“幸福な人たちはよい取引を、よい交換をするだろう。”
“幸福になることは他人に対しても義務であることは、十分に言われていない。”
(幸福論)

自分自身が意志をもって価値あるものと信じる番組をつくる人々が、その社会的行為に幸せを感じ、自分でも楽しんでこそテレビの前の視聴者にも幸せが伝わります。それがアランの言う「取引」や「交換」がなされるということです。何が価値あるかは人によって異なるでしょうが、畢竟、正確な事実・情報の伝達や深い人間への洞察、文化・芸能の創造、多様な価値観への配慮などは、テレビの担うべき社会的行為の最大公約数にあげられます。

そしてこの経路は当然ソーシャルメディアでも一定の条件下で成立するはずです。自分自身の経験からいっても、SNSでメッセージを発信するとき、感情に任せた脊髄反射や、情念、怒りの言葉ではなく、単純に自分が楽しく幸せを感じる素直な思いを発したときに、自分も、おそらくそれを伝えられた人も、なんとなく幸せを感じるような場合があることを実感します。

従ってメディア論としてのソーシャルテレビ(マルチスクリーンも含む)をかたるときに、われわれが普段戦わせているようなメディア・コミュニケーションのイノベーション論、ビジネス論、技術論に焦点をあてた隘路にはいりこむ前に、ときどき立ち止ってテレビやソーシャルの本質的価値が何であるかを確認する作業を忘れてはならないと自戒しています。

番組のつくり手がテレビがもっている価値を疑いながら制作していては、どんなにソーシャルメディアの力に頼っても、つくられた番組に多くの視聴者は魅力をかんじないでしょう。

またソーシャルメディアによってWeb上で人とつながろうとするときに、呪いの言葉をはいているうちは「よい交換」はとても実現できないでしょう。
逆にいえば、あなたが視た番組(ソーシャルテレビでもよい)が、もしあなたをハッピーな気分にさせたのなら、その番組は義務を全うして、つくり手と受け手の間で幸福のよい取引をしたことになるのです。

ソーシャルテレビという形態が、テレビの一表現スタイルとして広く世の中に定着するには、テレビもソーシャルも「意志の力」をもって、幸福であろうと自らの義務を果たしたときにはじめて「幸福のバリューチェーン(価値の連鎖)」がうまれるのだと思います。

でないと、メーテルリンクが描き出した「青い鳥」のパラドックスは永遠に解消されることはありません。

 

稲井英一郎(いない えいいちろう) プロフィール
1982年TBS入社。報道局の社会部および政治部で取材記者として様々な省庁・政党を担当、ワシントン支局赴任中に9/11に遭遇。
2003年からIR部門で国内外の株主・投資ファンド・アナリスト担当
2008年から赤坂サカスの不動産事業担当
2010年より東通に業務出向。
趣味は自転車・ギター・ヨット(1級船舶免許所有)、浮世絵など日本文化研究。
新しいメディア・コンテンツ産業のあり方模索中。

 

 

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