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20122/27

[境さんポスト「メディアのライブ性」についての続編と、西さんポスト「制作会社問題とハードソフトの分離/一致」について] 前川英樹

そうだ!と思いついた時に、多少の粗雑さや不整合があってもメモしておいた方がいい。間が空くとついつい面倒になって放り出してしまいがちだ。“せんぱい”はだんだん気力が散漫になり、体力は落ち、フットワークは悪くなってきた。がんばろう。

 

[まず、境さんのいう「メディアのライブ性」についての補足]

1.  テレビもソーシャルも「ライブであること」で共振するという指摘はとても大事だが、どのように共振するのか、というより両者の「ライブ性」の関係を確かめることも大切だ。

2.  テレビのライブ性は同心円的(マス・メディアとはそういうものだ)であり、時間の共有性を特性としているのに対して、ソーシャルのライブ性は多中心的、相互干渉的であり、時間は多層的に進行する、といえるだろう。このことを承知することで、ジャーナリズムであれエンタテインメントであれ、テレビとソーシャルの相関係が機能的に成立する。

3.  ソーシャルの登場は、人々を国民や市民などのカテゴリーが形成するマスメディア型の均質な時間だけでなく、<個>と<個の組み合わせであるネットワーク>が形成する多様な時間を生みだした。それは、当然空間の多層化・多様化につながる。

4.  その上で、例えばテレビはこのような多層多様な時空をどう取り込むか(=どう入り込むか)、それがビジネス論の前提になるだろう。

5.  未だにメディア論とビジネス論が上手く取り結べてないのは、メディア論がビジネスについて無知であるからではなく、むしろビジネス論がキチンとしたメディア論をもっていないからだ・・・と、前回書いた。この程度のテレビとソーシャルの関係が見えないで、テレビ局経営もメディアビジネスも何も見えてこないだろう。
* メディア論とビジネス論を緊張関係のもとでとらえながら一定の形にした例は、テレビマンユニオンであろう。

6.  ところで、こう考えてきたときに、メディアの記録性はどうなるのか。例えば、山脇クンポストがいうところのソーシャルに登場しつつあるエジプトの状況(「18 days in Egypt」)は、ライブ性とどういう論理で関係するのだろうか。

7.  当たり前だが、ライブ性と記録性は矛盾しない。その時のライブ情報が記録されてドキュメンタリーになり、ドキュメンタリーはメディア化されることで新たなライブ性が付加される。これは、テレビもソーシャルも同じ構造だろう。

8.  テレビとソーシャルの接点は、かつて「親潮黒潮論」(親潮と黒潮がぶつかるところは、プランクトンが大量に発生する優良漁場である。どちらから乗り込んでどういう方法で魚を獲るか、放送と通信の連携とはそういうことであろう)として語った漁場と同じで、豊饒な場であるはずだ。だからこそ、船の位置や潮の流れの測定や魚の調査研究や、漁法の開発が必要なのである。

 

 

[次に、西さんが指摘した制作会社問題についてのメモ]

西さんが、今のメディアの論点の一つとして制作会社について言及したのは全く尤もなことで、ともすれば忘れられがちな、あるいは避けて通りがちな問題を、「あやプロ」でさらっと提起した。

実は、テレビとネットという切り口でも、地デジという問題でも、その他テレビのあり方に関わるどのようなアプローチも、この制作会社問題は外せないのであって、それだけ構造的な問題なのである。西さんの提起から議論が広がることもあるかもしれないと思うので、簡単にメモにしておきたい。

 

1.  制作会社問題が論点として明確になり難いのはなぜか。
しばしば巨大なテレビ局と零細経営の制作会社という図式でこの問題は語られて来たし、そうした関係は無視しえない。ただ、より根源的には、そうした対立構造に見える関係を、テレビ産業の在り方として見ない限り、問題のありかは不透明のままであると考えられる。特に、テレビ局は「触れられたくない」という意識がどこかにあって、論点そのものを遠ざけがちだったのではないか。

2.  しかし、現在のテレビの編成構造からいえば、制作会社の存在は絶対的に必要なものであって、そこにどのような合理的な関係を形成するかは、まさに「喫緊」の課題なのである。まずは、テレビ局が、テレビの内部の問題として制作会社の在り方を認識することからスタートすべきであろう。

3.  そのうえで、この問題を見えにくくしているのは、テレビ局が「テレビはハード・ソフト一致を原則としている」という命題を、不正確にとらえていることだ。「ハード・ソフト一致」ということを、放送と制作の一体化ととらえるところから、内作(局制作)が基本で、外部発注(制作会社制作)はその補完的役割という図式がうまれ、その構図に当てはめて現実を見ようとする。しかし、1.に書いたように現在の編成構造では、制作会社制作は補完的ではなく極めて重要な位置を占めているのであって、その意味ではとっくに「ハードとソフトは分離している」のである。

4.  では、「ハード・ソフト一致原則」そのものが無意味かといえばそうではない。
「ハード・ソフト一致原則」とは、送信主体(放送局)が編成権を所有し放送責任を負うことと考えられる。
したがって、もう一つの解釈、即ち「ハード・ソフト一致とは、放送波よって直接家庭に送信する」という意味でもない。この後者の解釈も、ケーブル経由などの非直接受信が50%を超えていることから、既に破綻しているといってよい。

5.  放送が放送である所以は、この放送局の編成権=放送責任という一点にあるのであって、それがネット上の情報の在り方と放送を、制度的にも、事業的にも、しいて言えば職業倫理的にも区別する一線なのである。念のために付け加えれば、それは放送の優位性を意味しない。放送とはそういうものだ、ということである。ここも、放送側の誤解、ないしは思い込みが生じがちなところである。「基幹的役割」(新放送法における「地上基幹放送」)という制度的規定に凭れかかった優位性論は、放送を頽廃させる。

6.  以上の認識を前提にして、テレビ局と制作会社の関係を<合理的>に形成されなければならない。著作権問題を含む公正な取引関係は、下請け救済論としてではなく、放送産業がコンテンツ産業として成長するために欠かせない産業政策的経営課題なのだ。もちろん、契約書上で著作権の原点である「発意と責任」のありかを明確にし、その上で二次利用等の利益配分を明示することは当然であるが、その他、例えば放送されることによる番組の付加価値の評価などは未だ不明確なままと思われる。他にも多様な課題があるだろう。しかし、なによりも放送産業の構造としての制作会社という位置づけを、局と制作会社の共通認識にすることである。

 

これを書いている途中で、河尻さんの原稿が来た。
河尻さんポストのあやを取るのは、しばしお待ちいただきたい。

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール

1964年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

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