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201110/8

「テレビ最適化論 序説ーメディア×ネットワークの対決では「×」を獲ったほうが勝つ。」① - 河尻亨一

●徒然メディア論として

久々のあやぶろ。なので、大きくあやをとろう。
セミナーの際に前川さんからご質問いただいた「メディア」と「ネットワーク」について、つらつら書いてみたい。

いまのメディアを考える際に、その両者の関わり(×)は無視できないが、意外と“どっちか”だけの論調になりがちだな、 というのが僕の実感である。

と言いつつも、最初にお断りしておくが、「メディアとネットワーク」は本来分けて論じることに意味はないのだと思う。なので、みんなどことなくむず痒い思いをしながらも、“どっちか”に軸足を置いて語らざるを得ないのだろう。

しかし、二つはつらつらと絡み合ってる。メディアはネットワークがなければ発生しないし、ネットワークはメディアがなければ衰退する。TwitterやFACEBOOKに書き込まれるネタの多くが、テレビやネットニュースなど、メディアの情報であることを見れば、これは理解しやすい。

両者の関係性はテニスの壁打ちゲームにおける「壁&ボール」とも言える(厳密に言うと「壁&ボール+打つ行為」)。この“遊び”を成立させるのは、壁でありボール(+打つ行為)である、というただそれだけだ。

●「モテキ」のネットワーク

志村さんの「モテキ」論を面白く読んだ。実は約1年前、僕は大根仁監督にインタビューしている(日経トレンディネット「This Is Hit!」http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20101008/1033304/?rt=nocnt)。テレビドラマの段階から、Twitterなどを活用したプロモーションに積極的だった。志村さんが指摘しているようなこともご本人が発言しているので引用しておこう。

大根仁氏:まあ、「モテキ」って原作を読んでも、読んだ人同士が話したくなる漫画ですからね。「これ面白いよ」って人に薦めたくなりますし。恋愛という普遍的なテーマを扱っていることに加えて、女の子だったら誰が好きだとか、幸世(主人公)には本当に腹が立つみたいなこととか、読むといろいろ話したくなる。
 なので、ドラマもそういう感じになるといいな、とは思ってましたね。突っ込みどころというんじゃないんだけど、見て「おい!」と言いたくなるムード作りは意識したかもしれない。

「モテキ」のテレビドラマがオンエアされていた頃は、Twitterのタイムラインがそのネタで持ち切りだったことを思い出す。その意味で「モテキ」はネットワークを活用して広まったコンテンツと言うことができるかもしれない。そもそも「モテ」という状態はたぶんにネットワーク的だ(笑)。

●仏教はネットワークよりの思想かもしれないが、メディアがなければどうなっていただろうか?

「モテ」から、いきなり「仏」の話題に移る。

聞きかじったところによると、古来偶像崇拝は多くの宗教でタブーだったようだ。おそらく、メディア(偶像) はその教えに備わる「キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!」の解脱(悟り)を妨げかねない。しかし、「宗教」が伝播し制度あるいは歴史になるためには、メディアの力を借りざるを得ない。そうでない宗教は消えるか、閉ざされた狭いコミュニティに留まるのみだろう。

例えば、仏教。
世界宗教の中でもそれはどちらかと言うとネットワークよりの思想だと僕には思える。おそらくその教えは最初、「物語り」(口コミ)によってネットワーキングされていたが、空間と時間を超えるためには仏像や経典(紙)etcのツールが必要であった。

時は移り16世紀。
絵師、長谷川等伯が大涅槃図で物語ろうとしていることはネットワークそのものだが、当時としてはど迫力級だったであろうあの10m大の巻物(メディア)がなければ、上皇とこの取り巻きに効果的なプレゼン(メッセージング)はできなかった。マクルーハン曰く。「メディアはメッセージである」。しかし、その教えは悟りとは関係がない。

悟りを求める人々は、ただ座るか漂白するか修行するかなどして、ひたすら釈迦の教えに“つながろうとする”しかないのだ。そうすれば、ネットワークの神髄(森羅万象生成のプロセス)をからだに取り入れることができるかもしれない。

●二元論では乗り越えられないのだが、そのようにしてしか物事を認識できない残念な僕が考えたほうがいいこと

ところで僕は、この21世紀になっても、いまだに二項対立的に物事を整理し、見立てで把握するクセがある。
それが“心の習慣”というか、わかりやすいんだから仕方がないし、「認識」とはそのような行いだという説も聞いたことがある(「表現」はそれらがないまぜになって先へ行く。前川さんの言葉を借りれば「表現は市場の外にある」)。

このあいだセミナーで「SNSはメディアではなくネットワーク」と発言したのも、2011年現在の状況を、TBSというメディア関係者の場に導入したかっただけで、アンサーを提示したかったわけではない。

FacebookやTwitter、google+などがメディアに見える人にはそう見えるだろうし、ネットワーキングとして活用している人にはそう思える。それだけのことだろう。ちなみに自分はキャラ的にも世代的にも中途半端な人間なので、それらを都合よく中途半端(よく言えばハイブリッド)に活用させてもらっている。

ということもお断りした上で、自分がどちらかと言うと「メディア」に属すると思うイメージと「ネットワーク」に属すると思うイメージを思いつくままに、対概念として挙げてみた。実際には対立するものではないし、あくまで思いつきなので間違ってるところもあると思うが、今後の“あやとり”のトリガーにはなるかもしれない。

★メディア

→空間(ステージ)・名詞と形容詞・事件・表現(多様性&作家性/メッセージと意味解釈)・男性(※ジェンダーとしての)・キリスト教・ROCK・物質(固有性としての)・「いまFACEBOOKがキテるぞ!」とかやたら書く人々やFBのニュースフィード・族(例:おたく族・ヤンキー・annon族など)・お金(貯蓄)・理想・所有・音楽産業・プロダクト・国家・ロジック・弥生・儒教・木・標準語・フォロワー1万人とかいる女子大生・きのこ・「モテキ」の原作・放送・家・制度

★ネットワーク

→時間(コンテンツ)・動詞と副詞・事象・情報(多分脈性&コラボレーション/マッサージと快楽)・女性(※ジェンダーとしての)・仏教・JAZZ・精神(関係性としてのそれ。近代的内面じゃなく)・FACEBOOKそのもの、あるいは友だち申請・系(例:草食系・ビジュアル系など)・お金(交換)・妄想・シェア・音楽・インターフェース・コミュニティ・文脈・縄文・老荘・森・方言・大阪のおばちゃん・粘菌・「モテキ」のドラマや映画・通信・ストリート・システム

●「つながりたい」バブルは鳴り止まない?

勝手な分類なので、異論反論オブジェクションは甘受するが(皆さんも色々当てはめてみるといいかもしれない)、言わんと欲していること、おわかりいただけるだろうか? これで「定住とノマド」とか言ったらもはやギャグだが、やっぱりそうなんだよなー、と思わざるをえないところは正直ある、と言いたい。

もちろん、その対立と調停は大昔から繰り返されてきたことだが、いまみたいな“とんでもないこと”になっちゃう芽が育まれたのは20世紀、それも特に後半であり、「ソーシャル」(社交)という人間の本能をよりマジカルな形で具現化するデジタル技術が出現してから、対決傾向は顕著になった。

これもよく言われることだが、スティーブ・ジョブズなどが東洋思想フェチだったのは、なんとなく腑に落ちる(イスラムな側面もあるらしい)。そりゃ、手裏剣だって買ってもおかしくない。

老荘もそういうものだろうけど、東洋にあるものの見方、感じ方はネットワーキング的フィーリングと相性がいい(メディア的方法論がなければツールが普及しないのも事実だが)。

で、いまのソーシャルブームに関して言うと、ツールが最適化されたその瞬間、抑えられていた「つながりたい!」欲求が爆発した。しかし、これは落ちつくところに落ちついて行かざるをえないと僕は思う。悟りでも開こうと考えない限り「つながり」にも限界はある。だけど、もう元には戻らないとも思う。

●メディアとネットワークは棲み分けない

だからと言ってすべてがソーシャルネットワーク化すると考えるのは早急だ。何度も言っているように、ソーシャルはメディア(メッセージ)がなければ枯れていく。むしろいま考えたほうがいいのは次のこと(↓)ではないだろうか?

そもそも空間と時間は、生活においては現状セットだし、名詞と動詞もセットでないと言語にならない。
「メディアとかネットワークがなんであるか?」ということに意味はない。ただ「×」が重要だ。

しかし、どちらかと言えば時代がフィーチャーしているのは「名詞ではなく動詞(アクション)」であるし、「男性性じゃなくて女性性」である、というここぞのタイミングで、「メディアだぞ、どや!」的な動きをしているとかなりサムいことにもなりかねない。

なので、そうじゃないところから考えたほうが発見が多そうなので、僕は場所によっては「ネットワークです」と強調している次第だ。(逆にネットワークなテックな人々の前では「メディアです」と言うと思う)

メディアとネットワークはあくまでセット。一方が死ねば、もう一方も死ぬ。

●「×」とはイノベーションである。進化ではなく最適化が求められている

なので今後もメディアはなくなることはありえない。だが、テクノロジーがもたらしたネットワークのやり方の変化をふまえて最適化したものに限っては、というひと言も付け加えておく必要があるだろう。

もし、長谷川等伯が昭和30年代に20代だったらデザインオフィスを立ち上げていたかもしれない(マスコミュニケーション時代におけるそれを。等伯はクライアントのニーズに合わせてそうとう作風変えてるし)。

平成20年代に20代だったらニコ動に就職していたかもしれない。少なくともpixivに投稿している可能性は大いにある窶披€狽ニいう話なのである、これは。

つまるところ。
ネットワーク×メディアの最適化フェーズにおける「×」をどうすればゲットできるか?

僕の関心はそこにある。いわば蔦屋重三郎的処世である。歌舞伎ブームという浮世の中でインサイトを発掘、競合相手が用いていない刷りの技法を使い、いかにムーブメントを生み出すか? ということだ。その流れにそぐわないビジネスを続けている版元や工房は時代遅れになっていった。

あやぶろの原稿では、その「×」をハブという言葉で言おうとしていたりするが、ようするにそれはテクノロジーの進化がもたらすイノベーションだ。グーテンベルクの活版印刷テクノロジーが「近代の形成」に寄与したとすれば、20世紀後半以降のデジタルテクノロジーが「next」を生成していく過程にあるいまの大きな流れの中で、そこへの最適化対応への意思は、それこそ当たり前の話だったりもする。それを怠ったり、失敗すれば滅ぶという物理法則をクールに理解して早めに動いたほうがいい。というか、見る前に跳んだほうがいい。

●「自衛隊さまさま、ボランティアさまさま、そのほかはいらない!」と言い切ったおじさん

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この原稿は、文字数の限界を超えたので続編は次のエントリーとします。(管理人)

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