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20113/21

[都心は静かだが、不安も密かに潜行している-大災害・テレビ・ネット②-]前川英樹

■ 街に出た
街は「不安」という水を吸い込んだスポンジのように静かだった。
5日ぶりに都心に出かけた。ラッシュアワーを過ぎた時刻で電車内も駅も静か、建物の中は節電で薄明かりだ。仕事をしている人も少なめだ。いつもの喧騒ない。その静けさには、人々の胸にある不安が滲んでいるように感じられたのは、こちらも不安を覚えているからだろう。

18日の金曜日、計画停電中の10時過ぎに家を出て、まず赤坂TBSに寄った。というのは、その日の朝のTBSラジオで「家にある使えなくなった電池式のラジオがあれば、被災地に届けたいのでTBSに持って来て欲しい。現地では情報不足で、こういうときには携帯型のAMラジオの強みが役立ちます」という呼びかけがあったからだ。サカス広場に“続々”とラジオを持った人が集まってきていてチョット感動した。家にある3台の携帯ラジオを提供。
そのあと青山へ。放送人の会の企画「放送人の世界―曽根英二・人と作品―」(第1回)に参加。曽根さんは山陽放送OBで、ドキュメンタリー・ディレクター。災害の直後なので延期ということも考えられたが、曽根さんは上京の意思があるとのこと。今回を逃すとなかなか次の機会はないだろうということで、一般参加の方は少ないだろうけど開催に踏み切ったのだ。会員20人ほどが来てくれた。

■ 剛直と情緒
瀬戸内海の島、豊島(てしま)の産廃問題を覚えている人もいるだろう。
国の産業振興にともなう産業廃棄物の処理場として、香川県は豊島を廃棄物埋め立て用の土地として業者に認め、膨大なゴミが島に投下され続ける。国と県と業者の政策・思惑・利益の3重構造が島民にかぶさって10年余。中坊公平弁護士が団長の弁護団が支援した戦いということで記憶されているかもしれない。曽根さんは、1991年から10年以上、豊島の現実をドキュメントとして撮り続けた。島民はもちろん弁護団も大変だが、撮り続けるという行為も大変だ。だが、作品評価や制作者としての曽根さんについてはここでは語らない。それよりも、4時間半の試写と解説とディスカッションの間、ずっと頭にあったのは今回の福島原発のことだった。
産廃処理と原子力開発は同列ではない。ただ、国の産業政策が破綻した時、というよりは、それが破綻しなくても自然あるいは自然と共棲する生活を疎外する時、その負荷は生活者が負うという構図を考えないわけにいかなかった。
曽根さんの剛直な(武骨といっても良い)、つまり対象を見つめ続けること、そして饒舌を排した言葉で語り切るという方法は、多くのキュメンタリー作品の中でも異色だろう。そういう<仕事>を見るにつけ、今回の(あるいはいつの時でも)災害報道は、初発の衝撃的中継を過ぎるとともに情緒的に傾斜いく、テレビによる情報提供が改めて気になるのだ。どういうわけか、CNNの記者レポートの方が、同時通訳の日本語を通してさえ、対象に迫っている。何を伝えるべきかという記者のあるいは局の意図が不在なのだ。「たいへんだ、大変だ」ということのほかに何もない。そこには客観報道もなければ、明確な視点=主観もない。
ハイビジョンの初期(まだハイビジョンという名前もついていない頃)に、「現行テレビの5倍の情報量」に感心していたら、「だから“何を見せないか”ということが大事なんだ」という鋭い指摘があった。技術的に可能だからといって、そこで情緒的に叫び続ければ、それはノイズになる。ノイズも情報だが、それは情報を受ける側が選択できなければただうるさいだけだ。そうなると、人はソーシャルメディアで「うるさいな!」と呟く方に回るだろう。
被災地に入れる条件はマスメディアの方が圧倒的に有利だ。機材も取材費も人員もそうだ。その取材者が、被災者の「今」と救助・捜索・救援など現場の行為の接点を切り取れば、見る側は「ガンバレ!」という目線で見る。そこに、大災害という不幸の中の希望が生まれる。余分な情緒はいらない。いま、人はどう生きているか、メディアの権力批判の基盤はそこにある。ダメな指導者のもとでも人は生きていかなければならないからだ。

■ マスとソーシャルの「入れ子構造のためのハブ」
このことは、放懇シンポ「ソーシャルメディア時代のジャーナリズム」におけるネットジャーナリズムと既存(?)ジャーナリズムの壮大でスリリングなすれ違いの中で、TBS報道特集金平キャスターが、自己批判しつつ且つ慨嘆した「既存メディアのソーシャル性の喪失」につながる。既存メディアのソーシャル性という時の「ソーシャル」とソーシャルメディアの「ソーシャル」の関係が議論されずに終わってしまったが、そのすれ違いについてもここではこれ以上踏み込まない。ただ、こうは言えるのではないか。つまり、①ソーシャルメディアは同時的にコミュニケーション空間として機能する、②マスメディアは情報の検証性(=プロ性)を存在理由とする、③したがって、理由と機能が異なるものを組み合わせたところに、新しい情報空間が生まれる(はずだ)。あたりまえか・・・。
で、河尻さんのソーシャルメディアをベースにした記録や志村さんのアメリカでのメディア体験を読みつつ、「ああ、いまメディア経験って言うのはこういうことなんだ」と率直に思い、そこから、河尻さんがいうところの「入れ子構造のためのハブ的存在」(「あやブロ」2/6&22参照)がやっぱり必要だろうとも思った。そのハブ化が何か具体的な仕組みを指すとしたら、それはどういうものだろう。そのための条件は、テレビ局がテレビ情報をテレビの傘の下から解放することのように思えるのだがどうだろう。志村さんがアメリカで見たNHKやTBSのライブストリーミングのようなものがベースになるのだろうか。それにしてもこの大災害情報を異国のメディアで経験した志村さんのレポートは貴重だ。
ここまで書いて一息入れるためにCNNを見ていたら、ネットにアップロードされた映像を流している。<既存メディア系>の僕は、やはりつい既存メディア(特に日本の)を軸に考えていたのだ。ということは、どちらからも相互乗り入れ自由、というのが先ず最初の関門だということだろう。今そんなことに具体的に関与する立場にないのだから、コトバでいうしかない。
と、またここまで書いて、唐突だが思い出したことがある。僕の古い女友達がロンドンにいるのだが、彼女は「日本に戻ってきて思うのは、みんな日本の若者はダメだというけど、ダメなのは大人の方よ」という。これって、<既存>と<ソーシャル>に通じないかい?・・・今回は全然論理的ではなくて、ただダラダラと一人あや取りのように書いている、が、まいいか。

■ 身体論的想像的
話を戻す。河尻さんは空腹と空虚について、3月9日の「あやブロ」でこう書いている。「もしかして……。『ダダ漏れ』にもこの手の壁が立ちはだかったのか? 世界に対峙し疲れていたのだろうか?(略)・・・その意味で「ダダ漏れ」は空虚を映し出す装置であり、そこが革新性とも言えるのだが(そのことによって批評性を持っていたが)、その作業がコミュニケーションとして行われたとき、コンテンツはただの日常(暇)に回収されるかされないかのギリギリの駆け引きとなる。暇人たちはそれを好む。そこに、己の空虚にシンクロする何かを見い出して癒されるのかもしれない。僕は戸惑う。空腹と空虚のあいだで。それが“現実”であり“現場”だ」と。この<タダ漏れブログ炎上>について、僕は知らなかった。
ハブ化をコトバ、つまり観念と想像力で語るとすればここが肝だ、と思う。つまり、仕組みの前のメタ的問題がここにある。で、実は本当はここのところに踏み込みたいのだが、大災害はそこを待てといっている。ただ、一言だけいえば、ホントのホントに大事なのは次のところだ。河尻さんは最後にこう書いている。「だが、実は僕の関心の中心はそこにはない。どちらかと言うと『空虚は何によって埋めればいいのか?』にある。(略)…そのヒントは『表現と身体性』ではないかと僕は考えている」。この河尻認識は「メディア論ノート2002」で情報の非対称性のリカバーについて僕が書いたことに通底している。つまり、空腹も空虚も東浩紀の本のタイトル風にいえば「身体論的想像的」なのだ。あるいは、そうなることで“状況的”になりうるのだ。そのことは、「いかにして人々は街頭に出たか」という、このところの一連の「あやプロ」で進行中だったテーマに回帰する。あるいは、曽根さんの豊島のドキュメンタリーもそれ示している。そして、それこそ想定をはるかに超える津波に襲われた現場からの情報は、それを問うてはいないだろうか?
身体はメディアである。そして、身体性を離れて表現は成立しない。

                         □

TBSラジオが「AMラジオを被災地に送ろう」とよびかけたところ、2日間で3千台をこえる電池式携帯ラジオが赤坂に持ちこまれたという。これはやっぱり良い話。

                         □

もう一つ書き残しているのは「ACC CMフェスティバル受賞作品上映会」のことなのだが、これはいま中々書き難い。でも、賞味期限切れになるので一言。
当日の解説役であり、審査員でもあった某氏が「CMは広告主のメッセージを表現しているのであって、それは制作者のメッセージではない。だから、CMは芸術作品ではない」という趣旨のことをコメントしていた。芸術作品であるかどうかはともかく、制作者は広告主のメッセージを伝える行為の中で、あるいはそれを借りて<自分のメッセージ>を表現していると思う。であるが故にそれは<彼/彼女の表現>だと思うのだが、どうなんだろう・・・須田さん。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいからNHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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