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20126/21

6・21【テレビが「時間」を取り戻すには】志村一隆

 

 

多層的なリアルタイム性
前川せんぱいの前回ポストに「リアルタイム性そのものが多層的である(11)」とある。多層化したメディア、情報空間において、テレビや表現者、そして情報の受け手は、どう行動したらよいのか、この「多層的リアルタイム性」を軸に考えてみたい。

「リアルタイム性の多層化」は、『現実のリアルタイム』と『メディアのリアルタイム』がズレることが原因で起きる。
テレビで「現実=<状況>」が報道されるのと、ソーシャルメディアのタイムラインに乗るのと、友達から「あれ見た?」とメールが転送されるのは、リアルな実生活では時間差がある。
当然、<情報>の受け手も、テレビやケータイを見る時間が無かったり、ランチを取る時間がなくて友達と話せず、という現実があって、「『メディアに掲載された<状況>』=<情報>」を受け取る「メディア接触」のタイミングがズレる。
こうした、現実の生活行動と各メディアに<情報>が載るズレが、一見唯一絶対のモノと思いがちな「リアルタイム」を多層化している。(前川せんぱいポストで、認識にズレがあると指摘された「<情報><状況><個人行為>」の関係性を意識しながら考えてみた。)
個人やメディアがそれぞれ自らの「リアルタイム」を持ちながら生きているのが、我々の生活全体であることは言うまでもない。
そんな当たり前のことを、ソーシャルメディアが成立する前のマスメディアは、知らずのうちに自分たちだけが、絶対的なリアルタイム性を刻むと考えるようになったと言えよう。

 

タイムラインは、テレビの「リアルタイム性」を救わない
では、自身の「リアルタイム性」が相対化されたテレビは、どう生きればいいのだろうか。
いまいちばん盛り上がっているのは、ソーシャルメディアのタイムラインを取り込んでしまう方向性だ。ツイッターを表示させるテレビ番組は増えているし、境さんが推進するチェックインアプリを利用したソーシャルテレビの動きは、こうした文脈で捉えられる。(参照:ソーシャルテレビ推進会議
昨年、3.11後のメディア環境をあやぶろで議論した通り、ソーシャルメディアは、当時この多層化メディア空間で、自分を客観視できていなかったテレビの「リアルタイム性」を相対化してしまった。情報の受け手としては、テレビではなくソーシャルメディアの「リアルタイム性」に信頼を置いたのだ(当時は)。(昨年3月のアーカイブはコチラを参照)
そのテレビがソーシャルメディアの「タイムライン=リアルタイム性」を取り込むことは、テレビが再び信頼性を増すことに繋がるのだろうか。自分は全くそう思わない。

 

単層メディア時代の「リアルタイム性」は捨てるべきか
ツイッター連携やソーシャルテレビは、テレビを「個々の番組の総和でなく、巨大な流れの総体(せんぱいのメディア・ノートの(8)2008年3月1日)」として捉える延長線上で、「多層化されたメディア空間全体を巨大な流れの総体」と捉えてのことだろう。
メディアの多層化で、テレビだけが担っていた「リアルタイム性」が相対化された以上、テレビが自らの「リアルタイム性」を拡張しても、その存在感は多層で巨大な流れのなかで埋没するだけではないか。
このことは、テレビが「リアルタイム性」を捨てるか、テレビの「リアルタイム」を再定義する必要があることを意味しよう。
それは、結局「情報を<メディアとメッセージ>という関係で認識するか、それとも<コンテンツとインフラ>と捉えるかの相異が生まれる。(冒頭メディア・ノートの(2))」で指摘される「相異」のうち、後者について、テクノロジーの進展とは別な角度からも考えるべき時期に居るのではないか。ここで考える<コンテンツとインフラ>論は、水平分離を意味するものではなく、メッセージ性を強めるためにどうしたらいいかという意味である。
「メディアはメッセージ」だとしても、そのメッセージ性を失わないためには、コンテンツ=「表現」を改めて再構築する必要がある。「リアルタイム性」を「生中継」や「ハプニング」に求めるばかりでは、メッセージ性は宿らない。(参照:前川せんぱいの『テレビに表現形式と言えるものがあるのだろうか』)
多層化メディア空間の「リアルタイム」は誰が支配するのか。時間の支配は、「<状況><情報><個人行為>」の連続に与える影響力を保持することである。もう絶対的な存在はいなくなるのかもしれない。それでも、支配的な存在となることはまだ可能であろう。しかし、テレビが自身の存在感を示すために、他のタイムラインを取り込むことで、「リアルタイム性」を獲得する方向性は、安直な気がする。

 

「リアルタイム性」を持つために重要な表現
多層なメディア社会において「リアルタイム性」を保持するには、どのような「表現」が必要なのだろうか。それは、より「芸術」に近づくのではないか。せんぱいのポスト(11)に、『「テレビは非芸術反権力」とは「テレビは時間である」という断言肯定命題の帰結』とある。テレビの「リアルタイム性」が相対化されたのならば、テレビの流れ総体の表現は、リアルタイムから離れた作品になるはずだ。だからといって、前川せんぱいの挙げる「ベストテン」のような<リアルタイム・エンタテイメント>はダメと言っているわけではない。(『断言肯定命題』については前川せんぱいのメディア・ノート2004年8月5日を参照)
ただ、過去の思索や取材の取捨選択の上で成り立つ作品が、「多層化されたリアルタイム性」のなかでメッセージを持つ手段として重要性を増すだろう。絵画ではないが、作品と受け手が対峙している時間が「リアルタイム性」となるのであって、リアルな<状況>と「リアルタイム性」を共持することは減る。作品制作時の取捨選択のセンスは、メディアが拾えないリアル生活の出来事をどこまで含められるかに関係するだろう。その辺のセンスは、稲井さんの「いきと野暮のメディア論」が参考になる。
最後に、自分の「テレビ三角論」つながりでいえば、テレビは「展示」のミュージアムになるべきではなく、作品を「提示」する役割を担うべきである。
その作品とは多層なメディア環境下での「リアルタイム性」を保持する必要があり、それは<状況>に左右されるタイムラインではなく、「表現」と受け手の対峙が生むタイムラインのなかにあり、他のメディアへの<個人行為>を喚起するものであろう。

 

志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取 締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka

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