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20124/23

4・23【情報社会は多層的・共振的に出来ている-須田さんの「実現クリエイティブ」論を読む-】前川英樹

メディア総研の花見に来たけど、夜遅くてもう解散してしまっていたので、自分の小論が掲載されている「BRAIN」を郵便受けに投函していった須田さんのあやを取ることにした。みんな帰ってしまった宴のあとの、誰もいないビルの前で、多分いく辺かの花弁が風に舞ってだろう。いや、申し訳なかった。
で、その小論は<現実を変える「実現クリエイティブ」>だ。好評の「使ってもらえる広告」(アスキー新書)で考察したことを、その後「レイヤーとしてのデジタル」(デジタルvsリアルではなくデジタル・カバード・リアル)という踏み込んだとらえ方で見直し、<広告から→広場へ>というテーゼに整理したのだが、状況はさらに進展していて、「広場づくり」にとどまらず「実現クリエイティブ」即ち「本当にやっちゃうんだ・・・」という広告の金字塔的事例が登場している、というのが須田的認識だ。で、そこから生れるのが「表現だけで人が動く」のには限界があり、「現実での『実現』が必要」という発想である。

 [amazon_image id=”4048683063″ link=”true” target=”_blank” size=”medium” ]使ってもらえる広告 「見てもらえない時代」の効くコミュニケーション (アスキー新書)[/amazon_image]

 

ここでは[(実現+PR)×TV]という方程式が成立するはずだという(解説はいいだろう、ジッと眺めれば分かるというものだ)。
こうなると、クリエイタ―に求められる能力も「ホントニやっちゃうクリエイティブ」つまり「実現力」であり、それはいままでは営業やプロデューサーが担当してきた領域だった。ここに「表現」の大きな転換があり、それは「広告」の本道に還ることでもある、と須田さんは言う。何故ならば、広告の本質が「形式」ではなく、「効果」(現実に影響を与えること)であるからだ。だから、「広告の外の才能を採り入れる、広告の内の才能が出ていく、そうやって広告の概念を拡張していくことは、この産業の生き残りのために健全なことだ」と結んでいる。

・・・なるほどね。これは須田さんの会社の仕事ではないけど、例えば九州新幹線のCMなんかがそれに当たるのかなァ・・・。鹿児島から熊本までの沿線にともかく人を集めてパフォーマンスさせるなんて、確かに表現ではなく、広場でもなく、“実現”だ。そうだとすると、確かにジャンル分けによる広告のあり方なんて意味がなくなる。
[(実現+PR)×TV]
という方程式について解説はいらないと書いてしまったが、このPRの部分は実現に密着したネットニュースやクチコミなどをいうのであり、そこでの拡散の連鎖を、TVによってより広範囲にブーストさせるという構図が、ここで示されているのである。テレビ局にも事業部門があるのだから、かの方程式の応用は出来るはずだ。

広告のことに興味はあっても、これ以上のことを言える能力もないし立場にもいない。ただし、こうはいえるだろう。すなわち、情報空間は、状況=現実空間、テレビ的情報空間、ウェッブ的情報空間などなどが多層的に構成されていて、それらが相互に共振しているのが、総体としての情報空間というものだということだ。そこから、人は状況という現実の中で自分の行為を選択する。したがって、共振しないメディアは存在理由を喪失するであろうということだ。共振=お互いに反応しあって自らも震えだす、ドキドキする、ノイズや不協和音も含めて反応する、その感度の良さがこれからのメディアには必要なのだろう。だから、かつて言われたような、単純なテレビ崩壊論や、テレビ特殊論はもはやどちらも意味がないということだ。その話はもう済んだといってよい

それにしても、「広告の外の才能を採り入れる、広告の内の才能が出ていく、そうやって広告の概念を拡張していくことは、この産業の生き残りのために健全なことだ」というフレーズは良い。この柔軟さが大切なのだ。広告をテレビと置き換えれば、テレビにとってもそれが大事だということが見えてくる。この時、「形式ではなく効果だ」という広告としての前提は棄ててもよい。何故ならば、広告にとってテレビは一つの形式(場ないしはツール)だが、テレビにとってテレビはそれ自体だからだ。これはトートロジーではない。形式そのものが存在理由であるものは世の中に存在する。身体も含めてメディアとはそういうものだろう。メディアはメッセージだということも、多分そこに関係すると思われる。その上でなおかつ、外の才能を採り入れ、内の才能を放出するという自由度がどれほどあるか。テレビそれ自体が存在理由であるにしても、テレビの中だけで才能が充足するとは思えない。それでは共振するメディアにはなれない。才能の流動性を実現するために、何をしたらいいのか。かつて、「この会社は、男と女と外国人が三分の一ずつになると良い」といった先輩がいたが、例えばそう考えたら何かが見えるだろうか・・・マ、例えばだけどね。
それにしても、広告界の方がテレビより時代が見えているようだ。テレビの保守性は相当に深い、残念ながら。

というように、須田論に共感し啓発されつつ、最後に一つだけ思ったことがある。
「広告は現実に影響を与えてナンボのもの」だとして、そして「本当にやっちゃうんだ…」型の広告がどんどん登場しているとして、表現という行為は広告の世界でどうなるというのだろう。「実現」ばかりでいいのだろうか。実現しないけど、表現されているのだっていいじゃないか。
レイヤーとしてのデジタル、あるいはデジタル・カバード・リアルという認識に同意しつつ、しかしリアルは何処かでデジタル(サイバー)を裏切るであろうということを、潜在的に期待している自分がいる。進化論的変化より、突然変異が生物の歴史を変えてきたように。あるいは、休眠していた火山がいつかは爆発するように。そう感じるのは、[表現⇔実現]と[リアル⇔デジタル]の関係が今一つ整理されていないからなのかもしれない。
表現とは、市場の外と内とを往還する行為であって、広告においてもそれは変わらないと思うのだ。デジタルとリアルを二項対立的にとらえることは意味がないとして、といってそこに何の緊張もないというものではあるまい。むしろ、どう緊張関係を作るかということが、新しい表現を生み、実現に繋がるように思えるのである。

須田さん、ゴメン。夜遅く訪ねてくれたのに、あまりチャンとあやが取れなかった。

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール

1964 年TBS入社 。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳の ある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。
「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

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