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20116/7

[オリジナリティーの“一点性”はやっぱり大事だと思うよ] 前川英樹

志村さんポストの感想から始めよう。
志村さんのロンドン紀行を読みながら思いだした。それほど多くない海外体験で印象深かったのは、夏のアラスカのなかなか夜にならない夜で、「やっぱりね」と納得した。もう一つは、6月のスイスの日暮れが思いの外遅いことだった。スイス、というかヨーロッパがこちらの思い込みよりずっと北に位置していたことを実感した。そういえば、長野オリンピックは史上最も南の都市で行われた冬季オリンピックなのだが、それが北アフリカのモロッコと同じ緯度だと聞いて「嘘だろう」と思ったのだが、地図を開けば正しくその通りで、ここでも思い込みとは恐ろしいと思ったものだった。ついでに、日本は東アジアモンスーン地帯なんだと納得したのだった。
ことほどさように、“リアル”というのも、実在(認識対象)と実感(認識/記憶)のどちらを言っているのかで、随分と差がある。ここから、シニフィアンとシニフィエに話をつなげるのはチョット無理だろうが、サイバーとリアルという議論も、少し広げれば「私たちは何を見ているのか」というなかなか深遠な論点に行きつく。

さて、実物の絵を見るのと精巧なデジタルコピーを見るのとどう違うのかという問題より、どちらであれ、見る側が何を読みとるかということが大事だ、と志村さんはいう。確かに、絵画の収集家が奥深くにしまいこんでしまって世に出て来ない本物よりも、画集に印刷され頒布された複製によって、遥かに多くの情報が人々に共有される。それはその通りだ。
だが、そうであるとしても、ベンヤミンが「複製時代の芸術作品」でいう“アウラ”(オーラ)というものをどう考えるかということは、やっぱり問題だ。オリジナルの一点性は成立するのかどうか。つまり、デジタル技術はついに芸術からアウラを取り去ったというべきか、あるいはそのアウラまでコピーすることを可能にしたのかどうなのか・・・コピーされたアウラはアウラではないか。
多分こういうことだろう。美術館に保存されたホンモノを、専門家がそれこそデジタル技術を駆使して作品の制作過程や画材などを詳細に分析し解明することで、これからも色々な発見を生むだろう。しかし、それはアウラへの崇敬とは言えまい。一方、展覧会場に展示されたホンモノを見ようと、大勢の人々がほんの数分立ち止るのというのは何か。アウラの片鱗に接したいということだろうが、しかし、それはかつて貴族たちが豪邸の奥深い一室で、一族の者だけがホンモノを鑑賞するという行為とは違うだろう。つまり、デジタルコピーの精巧さとは別に、絵画との向き合い方が変わってしまったことでアウラは拡散した。音楽だって同じだろう。とはいえ、それをオルテガ・イ・ガセ―のように大衆の登場による堕落などと言ってはいけない。

しかし、それでもオリジナルの一点性というものは大事だと思う。それは他者との相異による究極の存在証明だ。
そのためにこそ、人は表現から離れられない。それが、写真のような複製性を前提にした表現においても、である。“”決定的瞬間 とはそれを意味している。

以上が、志村さんポストへの感想だ。
その上で、以下の志村さんの指摘はテークノートしておきたい。
① 「実物の記録を求める人と、リアルに基づく洞察を求める人と、どちらが多い社会なの(か)は、メディアの立ち位置にも大きく関係しそうだ。」
これについては、上に書いたことが対応していると思うのだが、ズレテいるだろうか(認識としてではなく、論点として)。
② 「こうした身体的リアルさに基づくアート活動をジャーナリズムに置き換えたのが、河尻さんが目指すアクション・ジャーナリズムなのだろうか」
これは、もちろん河尻さんの考えを聞きたいところだが、「置き換えた」というより「ジャーナリズムとして行為する」と僕は読んだ。どうだろう。
③ 「インターネットのソーシャル体験が増えるほど、社会はそのズレを許容し、他との関係性はそれを前提としたものに変化するだろう。それは、国家から見た共同体を崩壊させ、マスメディアの視点にも変化を促す」
「国家から見た共同体を崩壊させ」というところは少し言葉を足した方が良いように思った。国家と共同体は対立概念として読めそうだが、そうではなくて国家の成立要件としての共同体を崩壊させ、「新たな、つまり国家と“共犯関係でない関係性”を生みだす可能性」ということを言っているのだろうか。
④ そうだとすると、5.31の「あやブロ」(「ハブ」“的”の過激性について、など・・・河尻さん、チョット教えて)の終わりに、「日本社会の特徴は『共同体主義』で、そこには『特殊意志(社会内社会の特殊な意志)』だけがあり、社会の総体をくまなく覆う結合の論理としての『一般意思』がない。(本当は)一人ひとりが違う差異に立脚した結合こそが必要なのだ。前者を原理とするものを『共同性』、後者のそれを『公共性』と呼ぶ」という加藤典洋氏の考え方を紹介した(「さよならゴジラたち-戦後から遠く離れて」)が、志村さんの趣旨もこのようなものなのだろうか・・・志村さん、チョット教えて。
⑤ ③で引用したように、この後に「マスメディアの視点にも変化を促す」と続いていている。④の趣旨であれば、まことに尤もな指摘である。ここのところは、「マスメディアが作り出す一つだけの見解」という認識と関係していて、マスメディア内部での様々な力学を敢えて無視すれば、その通りなのである。裏返せば、「一つだけの見解」からマスメディアが脱却するためには、<社会(=他との関係性)そのものがインターネットのソーシャル体験が増えることにより生ずる「ズレ」を前提としたものになるのだから、マスメディアもそれを前提せざるを得ないのであり、その視点を変化させなければならない>ということだろう。
⑥ 「アートは、記録を可能な限り普遍化し、その文脈を売り込む。受け手は、作品と対峙しながら、その文脈をリアルに体験する」
モダンが芸術から“アウラ”を剥奪したとすれば、現代=ポストモダン状況で芸術は“アート”として、社会的文脈の中で読み解かれる、ということだろうか。そこにアクション・ジャーナリズムが成立するとすれば、芸術と政治の関係はベンヤミンが読み解いた構図の中か外か・・・河尻さん教えて。

志村さんポストを読みながら、随分以前に読んだ本の断片を思い出した。怪しげな記憶と知識で申し訳ない。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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