あらゆるコミュニケーションが<Presented by ・・・・・>になる時代 須田和博さんレポを読む(前川英樹)
ところで、引用されている荒俣宏の記事で、私がちょっとしたショックを感じたのは次の箇所だ。(書き写すより、写真でご覧いただこう(マーカーのラインは前川)。
須田さんは、荒俣宏が1999年の時点で<Presented by・・・>即ち「インターネット上の高度なサービスがほとんどタダで使えるようになっている」こと、つまり「『なぜ、タダか?誰がタダにしているのか?』という、メデイアとユーザーの背後にいる『コストを負担する者』の存在について言及している。」ことに驚いている。
私もショックだと書いたが、というより愕然としたのだが、それは1999年という時点についてだけではなく、須田さんの言葉を借りるなら、荒俣宏の「やがて日常のコミュニケーションが、すべてスポンサードされる時代がくる」という認識そのものにある。
一言しゃべるたびに、あるいは書くたびに、それは「Presented by ・・・・・・」ということになるとすれば、それはコミュニケーションの発達と引き替えに私たちが何かを放棄していることにならないのだろうか? という疑問(根本的疑念といっても言い)がそこにはある。
それは、アナログ的でもなく、ガラパゴス的でもなく、それこそ人類史的疑問であり、まさに「最古」の疑問、それこそ人が人である理由につながる疑問、だろう。
だから、須田さんが広告を人類史的に考えようとするならば、どうしたつて<そこ>に行き着かざるを得ないのではないだろうか。
したがって、こうなる・・・些か乱暴だが。
1. 広告を考えることは、広告表現ではないコミュニケーションとの関係を考えることである。
2. 須田さんは「日本のマス広告の源流」を「江戸時代の引き札」にみるが、ではどうして「引き札」は<その時>生れたのか=なぜ<それ以前>生れなかったのか。<その時>江戸時代の日本に(同様なことが世界のどの国や都市で起こったとすれば、夫々の国や都市で)何か起こったのか。
3. そもそも、<その時>を生んだ状況、つまり近代とは人間にとってどういう時代だったのか、そして<今>も私たちは近代の掌の上で生きているのであるが、それでは近代は未来永劫続くのであろうか。
4. 「『変わらなさ』と『新しさ』が、いつどんな時代でも『人間』を魅了する」として、<Presented by ・・・・・・>が登場したのはそれこそそんなに昔の話ではない。
5. 方法が新しくなれば、魅了のスタイルも変わる。スタイルが変わっても、魅了の意味=本質は変わらないと言い切れるだろうか。
6. <Presented by ・・・・・・>の意味を、須田さんの言い方になぞらえれば、突然変異の常態化を超えて考えてみる価値があるのではないか。
7. とするならば、広告の近代史と人類史の交点に、やはり広告の秘密=魅力?を解く鍵があるのではなかろうか。
というようなこと須田レポート「最古と最新」を読みながら考えているうちに、2020年のオリンピック東京開催が決まった。
あのプレゼンテーションも広告が積み重ねてきた手法の集約であろうし、オリンピックそのものも“Presented by ・・・・・・”として人々に提供されるであろう。そして、オリンピック記録映像もまた“Presented by・・・・・・”として制作されるであろう。
では、“・・・・・・”とは何者か。
メディアも広告も人々も、“・・・・・・”とどう関係するのだろうか。
広告を<深さ(あるいは構造)>の問題として(時間の問題としてだけではなく)考えたらどうだろう。
“Presented by・・・・・・”は広告の内側の問題なのである。
前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964 年TBS入社。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メ ディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジとい うポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010 年6月”仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にして いる。「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸 隠。
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