マルチエンディング〜デジタル化で我々の手に戻った「物語」(志村一隆)
オマケ(記録と表現、時間の制約とソーシャルの熟成について)
いつも、オタクニ中村研究員と午後茶するマックのある人形町通り。昭和43年まで水天宮から新宿まで都電が走っていたらしい。いまは、「秋26」という都バスが秋葉原までタマに走ってる。
「この通りに都電?!」気になってググると、写真や思い出話がたくさん出て来た。
(都電13系統路線図。水天宮を走る都電の写真① 写真② 写真③ 写真④、写真⑤ 写真⑥ ブログ① ブログ② ブログ③ ブログ④ ブログ⑤ ブログ⑥(坂道)ブログ⑦(インタビュー)
これらの画像はメディアでなく一般の人がインターネットに貼付けたものだ。少しのエディターシップは感じられるけれど、それほど見やすいってわけじゃない。
それでも、食い入って見てしまう。のめりこんじゃう。
YouTubeにアップされてるこんな昭和の風景もつい食い入るように見てしまう。こうしたメディアの外側で切り取られた映像は、昭和40年代は公害、デモ、ヒッピーだけじゃないってことを改めて教えてくれる。
そして、こうした捨てない記録も時間が経つと価値が出ると思った。
捨てないで置いといたものがネットで公開される。それを誰かが「NAVERまとめ」でまた見せる。「NAVERまとめ」も、どっちかっていうとあまり捨てずに羅列するほうだろう。
つまりはこういうことかもしれない。
「記録」は時間をかけて、「表現」に転化する。それを時間の制約があるなかで、効率的に「表現」にするには「捨てる力」が必要だった。
しかし、テクノロジーが、その「時間」の制約をとっぱらったら、「捨てる力」は重要視されなくなるだろう。
そして、「ソーシャル」で関わる人数が増えれば、その分、「記録」が「表現」に転化するのにそれほど「時間」は必要ない。だから、とりあえず「複層」化した「物語」を提示し、それを「ソーシャル」がクイック熟成し、ひとつの物語に昇華してくれるんじゃないか。
「デジタル」化で、「物語」は企業のものから一般の人(受け手)のものに戻されたのだ。
「マルチエンディング」は、その流れで顕在化したひとつの象徴である。
志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取 締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka
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