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20134/25

島森路子さんのこと―ひとつの魔法の時代の終わり

4月23日。「広告批評」元編集長の島森路子さんが亡くなった。私は訃報をネットニュースで知った。2004年の春頃からご体調をくずされ闘病していた。編集部に来れなくなってからは、電話やFAXで指示をしながら仕事をされ、次第にそれもできなくなり、私が病院で最後にお目にかかったのは2006年の夏前だ。

メディアの報道で、「ここ数年(あるいは5年前に)ご体調をくずされて」というのがいくつか見受けられるが、それは事実ではない。2005年の途中から現場に出られてないので闘病は約10年に及んだと思う。

 

私が「広告批評」に参加したのは2000年10月である。マドラ出版という企業に入社したのだが、家族経営的というか、部活みたいな趣もあるこの小さな会社には、入社ではなく参加という言葉のほうがふさわしい。

 

当時はこんな小さな雑誌でも、誌面で募集をかければ約300名の応募があった時代だ。履歴書を送り面接を受けたのだが、それまで広告はおろか雑誌にも関心がなかった私は、有名な島森編集長のお名前を存じ上げなかった。

 

しかし、95年のオウム真理教の事件の際に、テレビでバッシングでも擁護でもないスタンスから、鋭いコメントを発していた女性コメンテーターがなぜだか強烈に印象に残っており、それが目の前にいる人だということは雰囲気ですぐわかった。多くの人が言うように才媛というのか理知的というのか、厳かさのような空気があるのである。

 

仕事を始めてからは大変だった。結論から言うと鍛えてもらった。このあたり書き出すとキリがないが、まあ、最初はよく怒られもした。編集稼業は常時大忙しなのだが、私はいわゆる使えないヤングで、最初は電話応対もままならず、「3ヶ月のお試し期間でゼッタイ辞める」と思われていたらしい。3ヶ月後に「自分、明日からも来ていいんでしょうか?」とオズオズ聞いて笑われた。

 

当時の私は、雑誌の入稿前に延々続く徹夜がとにかく苦痛で、隙を見てはなんとか逃げようとするのだが、島森さんは『夜中の赤鉛筆』というタイトルのエッセイ集も出されているように、いわゆるテッペン超えたあたりから本調子になる人だ。机が真後ろだったので、執筆や赤入れなどに専念されているときにこっそり脱走しようとすると、「もしかして…帰ろうとしてる?」の声でビクッとなる。冗談なのか本気なのか「私は頭の後ろに目が付いているから」とよくおっしゃっていた。

 

万事こんな感じであるから、編集部にはなかなかピリピリした空気がみなぎっていて、それがユルむことはほぼなかった。毎月の雑誌掲載候補のネタ(CMやポスター)を見てもらうときも手際よくやるように指示を受けるのだが、そうしようと思って焦れば焦るほどドツボにハマってテンパっていた。緊張のせいか最初の数年は、何かあるたびにダッシュしていたので、社内のネタ野郎になっていた。

 

常時のピリピリにはたぶん理由がある。「広告批評」は「掲載したいものだけをセレクトして、掲載したいように載せる」という部分で妥協がなかったと思うのだ。この強烈なストイックさは、あの雑誌以外の世界も知ったいまとなって振り返るとレアケースのようにも思えるが、私も仕事の上ではそれが当たり前なのだと考えるようになった。

 

いわゆるロスジェネ世代であり、たいした夢も希望もないまま就職し、最初はまったくダメだった私だが、どうやら2~3年目くらいから徐々に“編集者”というものになってしまったようである。いま就活シーズンを迎える大学生や新卒の若者に、「とりあえず3年は同じところで働いてみたほうがいい」とアドバイスするのもこの経験がもとになっている。

 

こうなってしまうとある意味強い。「オン・オフ」みたいなものが基本なくなり逆に楽だ。365日24時間お仕事な態勢となり盆も正月もない。元旦は朝から開いているキオスクを探して主要全紙を購入、すべての広告を切り抜いてチェックしていた。最終的には1月2日あたりから休んでいることに耐えられず、なんとなく会社に行って寛いでしまうような典型的ワーホリともなっていた。

 

「広告批評」の入稿は常にギリギリだった。最後の最後まで修正を重ね、作業がいつ終わるのかわからない果てしなさだ。やれるとこまでとことんやる。企画から取材、執筆、レイアウト、校正、配本までほぼすべての作業が外注なしで、少人数で毎月これをやり、週二回の広告学校までやるというハードさ。もしかするとこれは、いまで言うところの「ブラック○○」というものに近い何かなのかもしれないが、当時はそんな言葉もなく、私はポジティブに捉えて「ここは僧院もしくは寺」と思うようにしていた。

 

マドラ出版は総員10名程度の会社だ。南青山の骨董通りの奥にあったワンフロアのオフィスも狭く、そこで起こることはすべて筒抜けでもあり、隠し立てできるようなことは何もないのであるが、私は組織にはつかず離れずの距離を取っていた。

 

これは現実を一歩引いたところから眺めて他者とアツく盛り上がることがあまりない、私の性分に由来するものでもあるが、「この場所にあまり深く溶けこんではいけない」と実は感じている部分があった。いつ、どこから矢が飛んでくるかわからず、正直ビビっていたということもある。

 

そんな感じでありながらも、ほぼ唯一褒めてもらえたのが原稿執筆だ。言葉で説明するのが難しいのだが、「広告批評」のインタビューの特徴は「話し手の生身の言葉にあるライブ感を活字でいかに再現するか?」ということにあったと思う。それもネットでよく見かける全文おこしのようなものではなく、贅肉はキレイに削いだ上でシャープに骨格(ロジック)を掘り起こしていないといけない。

 

中途半端な記事を見せてしまったときは必ずバレ、「『おこし』はどうなってるの?」とよく言われた。仕方がない。入稿が迫っていようと、ほかに予定があろうとやり直しだ。原稿だけは自信を持っていただけに、このダメ出しによる敗北感は強烈なのだがグッとこらえ、書き終えた原稿と全文おこしとを見比べながら、最初書く際に落としてしまった「空気」を原稿内に戻していく。

 

でも、やっぱりなかなかOKはもらえない。「適当なものを社外に出してはいけない」は鉄則だった。その“美学”は、取材依頼のFAXひとつにも貫かれていた。2000年代前半は、まだメールで仕事のやり取りをすることが少なかった時代だ。

 

だから作業のアチコチで、こちらは煮詰まってどうしようもなくなるのだが、ご自身の作業を終えられた段階で、やっと「やれやれ」という感じで赤字を入れてくれる。すると記事が別もののようにイキイキしてくる。たいして面白くなかったはずの話でさえ面白くなる。これはマジックだ。有能な編集者は魔法使いでもある。広告のクリエイティブというものが魔法でもあった。だからそれは人を惹きつけるのだと思う。

 

島森編集長の求める「そのレベル」の仕事に応えるため、その頃の私は「会社~終電~自宅~始発」まで、ひたすら紙の原稿に鉛筆で手を入れ続けている状態で、365度どこから見ても不審者だった。当時はスマホもなかったし、なにより「手書き推奨」の環境でもあり、実際、島森さんの多くの原稿は手書きで、スタッフがそれをデータにしていた。

 

DTPは導入されていた。デザイン会社などでもよく見る光景だが、レイアウトなどはデザイナーのモニターのところまで行って口頭で指示する。ご本人はこの作業を「口マウス」と呼んでいた。

 

人に求めるだけではない。島森さんは、感覚とロジックを言葉に封じ込める作業を、両者分離することなく同時にサクサクやっているように見えた。インタビュー記事だけでなく、批評文でも、独特の発想の跳躍がある。嘘や取り繕いがないというのか、感情を操作することなく、その発露がそのままキラキラした“視点”になっていた。全身ジャーナリストだったのかもしれない。目利きとしてもスゴかった。見た瞬間にピンときてしまうのである。

 

島森さんはインタビューの達人と言われており、実際、相手がどんな人であっても、「こんなこと話さんやろ? ふつう」というようなことまでサラッと引き出してしまえるほど天才的なのだが、それを活字化する段階でもシャープだった。私も相当鍛錬し、1000人斬りくらいの領域には行けているような気もするが、あのノリというか天衣無縫の技は、決して真似出来るものではない。

 

もしかしたら。話を聞いているリアルタイムで島森さんの頭の中では、記事の内容からレイアウトまで完成していたのではないだろうか? 「企画段階から最終のアウトプットイメージを持つこと」の大切さも、口癖のように言っていた。

 

かくのごとく仕事にはとても厳しいので、特集企画を見せても滅多なことではよいと言われない。私の企画で、最初に“かろうじてのOK”がもらえたのは、2003年の「特集 広告2003」だった。そのあたりからコワいものがなくなってきた。

 

でも、あれはちょうど副編集長の白滝さんが亡くなった大変なときだ。弟分のように大事にしていた人を失ったことで、島森さんはそれまで見たことがないほど悲しんでいたが、仕事は非情だ。作っているものが月刊誌である以上、それでも作業は進行させなければならない。

 

その号の取材の際。コピーライターの秋山晶さんと前田知巳さんの対談中に、それまで気丈に振る舞っていた島森さんが、こらえかねていきなり号泣してしまった。そんな弱いところを見せたことがないので、自分はどうすればよいかわからなくなった。

 

いま振り返ると、そのとき本来の意味での雑誌「広告批評」は終わったのだと思う。80年代、90年代がこの雑誌にとって黄金期だったと思うが、その時期を体験していない自分は、最後まで本当の意味での“ファミリー”になれなかった気がする。

( 次のページに続く)

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