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20127/13

7・13【主に泣いてますと暦と時間】志村一隆

「暦」の時間

 

7/9のせんぱいポスト【メディアと時間についての断章と最近のいくつかのポストについて一言】の「8.テレビジョンは時間である」の「時間」は、国家の決めた「暦」と表現論としての「時間」の2つの意味がある。(以下、数字はせんぱいポストの項目)
「4. 時間管理において共犯関係にあった国家とテレビ」、そのテレビのオピニオンが、「7.一秒の狂いもなく整然と流れていること」であるのは、時間厳守な国民性を育むことが工業を発達させ国家利益に繋がるという目標を、テレビが側面から応援していたと捉えることができるだろう。
毎時0分から開始されるテレビ番組が並ぶ「時間編成」の発展も、テレビが国家の「暦」の番人としての役割を果たそうとした結果であろうか。私の住んでいる人形町では、夕方5時にチャイムが大音量で流れるが、そうした「3.時報」機能を原初としたDNAが、日本の放送には根付いているのだろう。
米国でテレビを見ていて、時間通り番組が始まらなかったり、急に音量が上がったりするのを見ると、米国の放送は日本ほど国家と共犯関係にあるとは言えそうにない。
また、英国BBCの取り立てがNHK以上に厳しいという事情は放送を見るのを強制されているようで、これもまた日本とは違う事情を感じ取れる。
「2.時差」は、まさに国家の時間管理を肌で実感させる経験だ。チベットに行ったとき、毎日暗くなるのがとても早かったことを覚えているが、それが日常であれば、否応なく北京が中心だと誰もが体感する。
それはカルフォルニアに住んでいる人が、タイムズスクエアのカウントダウンをテレビで見ながら感じる違和感と程度の差はあれ同じなのだろう。その程度の差が、国家の管理圧力なのであろう。(ちなみにチベットと同じくらいの位置にあるネパールは、日本との時差が3時間。中国は1時間。それでも日本も北海道と沖縄では、米国のタイムゾーンを考えれば、時差が在ってもおかしくはない広さ(幅?)だ。)
英国も米国も移民が多いし、中国も少数民族が多い。そうした多様性をどう管理するのか、国ごとの許容性の範囲が、せんぱいや他のあやぶろメンバーとの「テレビは時間」議論で想起され面白かった。
ソーシャルメディアが成立したおかげでメディア的に顕在化してしまった「暦」の相対化が「放送」に与える影響は、国の管理哲学の違いを比較するアプローチも面白いだろう。あまり移民もおらず、「1秒の狂いもなく流れている」放送システムを持つ日本では、「暦」の相対化インパクトは違うはずだ。

 

表現論の「時間」

表現論としての「時間」は、大抵「ライブ性」やハンプニングをもって語られる。しかし、ここでは、「時間」とは「論理=ロジック」ではないか?という視点で考えてみたい。村木氏が「テレビは時間」といったのは、コマをロジックで繋いでいく映画に対して言ったのかもしれない。しかし、「暦」が相対化されている現在、テレビを「総体的な流れ」として捉えるのではなく、映像表現として捉え直してもいいのではないか。
こんなことを思いついたのも、先日マンガを読んでいるときに、誤って2頁めくってしまい、話の筋がわかってしまった残念な経験をしたからである。マンガでは、物語に流れる時間=展開=論理は、作家のものであるが、その通りに読めるかどうかは、頁を間違ってめくってしまう事故を含め、読者に委ねられている。
テレビはどうだろう。視聴者は、テレビのなかに流れている時間を拒否することはできない。番組は、送り手が決めた時間に始まり、終わる。つまり、送り手と受け手はメディア上ではなく、リアルに同じ時間を共有しなければならない。
そして、その時間は誰にとっても均質である。本は人によって読み終わる時間が違うが、テレビの番組は誰が見ても60分だ。
物語は主語と述語で成り立つように、映像作品には最低限2つカットが必要だろう。そして、カットを繋ぐ時間は論理であるが、作家の意図した時間から受け手は逃れられない、そのこともまた映像表現も時間であると言えないだろうか。

 

「主に泣いてます」の時間

そんなマンガとテレビ(映像)表現としての「時間」に関して、面白いなと思ったのは、以前ポストした「モテキ」と「主に泣いてます」だ。どちらもマンガ版も映像版もある。(モテキに関する拙稿はコチラ
「主に泣いてます」は先週から放送されている。原作には、物語の展開とは無関係なギャグがときには手書きでたくさん書き込まれている。読者がどの程度そのギャグを読むかで、読み終わる時間が違う。マンガの中に流れる時間は一緒だが、リアルにそのマンガに関わる共有時間は違う。その違いは、作家の時間管理から離れ、スジとは関係のないギャグ表現を読者が共有するかにかかっている。表現の時間は、読者の数だけ存在する。

「主に泣いてます」は東京向島が舞台。スカイツリーが背景によく描かれる

 この「主に泣いてます」のギャグはテレビで放送するとどうなるのか?とても興味があった。第1回を見ると、ギャグはほとんど整理され、取捨選択され、ギャグのタイミング、「間」を意識した編集になっていた。つまり、映像作家が意図したギャグを視聴者が楽しむ演出になっていた。それはそれで楽しめた。
「モテキ」には、背景の道路やビルの壁に「文字」がやたら映し出される。そして、その「文字」は必ず主人公が読み上げる演出となっている。
マンガ表現では、そうした背景に挿入されるギャグ=文字を、読むか読まないかは、読者に委ねられる。
しかし、時間の共有を強制する映像では、その文字は読まれなければならない。なぜならば、作家側の意思として映像にある「文字」読む時間は、映像の物語=論理に他ならないからだ。その点で、「モテキ」の大根仁監督は、マンガと映像表現の時間性の違いを意識している作家と言えるだろう。

 

テクノロジーの時間

こうした作家が受け手に強要する時間の共有は、録画や倍速再生であろうか。テクノロジーが開放する方向性にある。頭出し再生は、本の頁を間違ってめくってしまうのと同じことを実現した機能だろうか。こうした映像のテクノロジーの方向性は、映像の時間性、論理の強要の強さの裏返しとも言える。
こうしたテクノロジーの発展で、「暦」が相対化されたのと同じで、表現の「時間」は弱体化していく。
たとえば、先日行った国際ブックフェアに「手塚治虫書店」というサービスがあった。手塚治虫のマンガから自分の好きな箇所をつなげて一冊の本にできるという。このサービスでは、作家の意図した時間=論理=物語は壊され、読者が作り替える。これは、コンテンツがデジタルファイルになったから可能になっている。
それでも、電子書籍が「テキストの自動送り」を意味するのではなく、あくまで紙の本を読むかのように、「ページめくり」機能を残すのは、時間の共有に関する受け手の自由度を担保する必要があると、無意識にでも書籍業界が理解しているのではないか。

電子ブックになっても、めくれる機能はついてくる

 

テレビの時間

送り手と受け手の時間の共有が開放される動きは、通信コミュニケーションでも起きている。
電話は送受信者が同じ時間を共有する必要がある。留守録はそれを受け手から開放した。メールは、送り手からも受け手からも、時間の共有を開放した。ツイッターは、受け手の存在すら曖昧になってしまった。
こうした日常の無数のコミュニケーションの変化は、映像や文字の作品にも反映されるだろう。
そして、個々の作品の「時間」が開放され、個人の時間軸で消化されるならば、各個人のズレた時間を一つにまとめる動きも必ず出てくる。それは、「暦」の再構築とでも言える行為だろうが、テレビはその役目を引き受ける覚悟があるのだろうか。少なくとも、ソーシャルメディアにおけるタイムラインを番組視聴者増加に結びつける考えだけでは、この複雑な時間軸をまとめきることはできないのではないか。(マスとソーシャルの時間軸に関する拙稿はコチラ
「番組の総体の流れ」のテレビジョンには時間軸が一つしかなかったが、「19.均質な時間の解体過程」にある現在、テレビが担う「暦」はより複雑さを増している。

 

志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取 締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka

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