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20112/18

[「ただの<なう>にすぎない」から「近代の超克」まで…志村&河尻ポストへのコメント]②-2ー 前川英樹

このポストから開いた方は、前のポストの続きなのでそちらから読み始めることをお勧めする。面倒だが、ヨロシクお願いします。ブログで余り書きすぎると読み手だけでなく、編集者にも面倒をかけることを学習した。

7.「では、2011年現在、テレビジョンに何ができるだろうか?それは『なう』を極めることではないだろうか?無数の声を集約し、それにアドリブで応えていく…つまり、原点に戻ることではないだろうか?」
YES!これは、2,5及び6と関連する。< 時間性>とはライブ性だけではないテレビ的表現に関わることであり、そうだとすると、いま「テレビ的表現」とは何かということがテーマとして成立しているのかどうか、そしてそれが『< テレビはインターネットとどう関わるか>ということと< どう関わるのか>』ということでもある。原点回帰とはそういうことである。ついでに、テレビの< 時間性>というテーマは、テレビ登場から今に至るまで続く「テレビは映像だ」という過剰な信仰?へのアンチテーゼでもあった。

8.「テレビが『ただの現在』に過ぎないとするならば、インターネットも『ただの現在』に過ぎない。あり方の位相こそ違うが広告も然り。なぜか?私たち自身が『ただの現在』だからだ。『なう』な存在である僕たちはそこを足場に息をしている」
これも< 承前=7>だ。
「入れ子構造論」と題して、< メディアノート>に5年前にこう書いたことがある。「テレビはインターネットを取り込むことで情報社会のポジションを確保し、インターネットはテレビを環境として受け入れることで自らの将来を選択する。この『入れ子構造』は成長する」と。窶ィ窶ィ窶ィ
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だが、これも既に< メディアノート>に書いたことだが、今やこの文章のテレビとインターネットを入れ替えなければ、テレビからは情報環境は見えない。つまり、「テレビはインターネットを環境として受け入れることで将来を選択する」と。ということは、「ネットのテレビ化」が進行しているということでもある。というようなことも含めて、河尻さんポストを読みながら、これをさらに下のように書きなおしてみた。
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ということは、「ネットのテレビ化」が進行しているということでもある。若し、テレビがこのまま「サボり続ける」ならば、テレビに残されるのは国家安全保障装置の機能=管理された時間による情報だけになるであろう。もちろん、そうであってもポテンシャルには、テレビは管理された時間の裂け目を見ることも、そしてその裂け目に踏み込むことも可能性としてはあるのだが。
ところで、テレビマンにとって< なう>とは何か?

9.「結句、表現者としてその事実にどこまで誠実に応えられるか?」
事実とは、表現者あるいはジャーナリズムにとって”躓きの石”でもある。
何事かを「真実」と判定するのはおこがましいが、事実であれば客観的なものなのだから、それを伝えるのが仕事だというわけだ。だが、事実は客観的か。ニュースであれ、ドキュメントであれ、事実は取材者・表現者の数だけある。だから、その時表現者たちが何によって対象を見、番組(記事、広告、etc,)を構成するかといえば、それは想像力でしかない。「誠実に応える」ためには想像力(感性と論理)が必要だ。但し、このとき、「視聴者の知りたいことに応える」とマニュアル本のように言ってはいけない。

10.「つまり、『ただの現在にすぎない』という言葉は、ジャーナリズムを、そして表現の世界を生きるすべての者にとってのマイルストーンなのである」
このフレーズは、コメントなしでそのまま記録しておこう。

11.ここまで来て、呼吸が乱れ、足が止まったと感じている。歳か!

12.最後にいくつか感想を。
① 志村さん、河尻さん、そして須田さんや阿部さんも、そして木原君も、< アラ古希>の妄言にチャンとリアクションしてくれてありがとう。若い友人たちに感謝している。
② < メディアノート>を読んで下さった方はお分かりのように、僕のメディアへのアプローチは村木良彦さんのテレビ論と会話するとこで成立している。今回のコメントを書きながらあらためてそう思った。優れた先駆者に出会えたことはありがたいことだ。
③ その村木さんの著書に、絶版で古本ネット検索をしても出てこないのだが、「ぼくのテレビジョン-あるいはテレビジョン自身の広告-」(田畑書店・1971年)という名著がある(前回参考として挙げたメディアノートのバックナンバーに関連記事あり)。若し、古書店や図書館で見つけたら是非一読してほしい。村木さんと僕の数少ない共同作業のことも出てくる。
④ 「コミュニケーションの本義は、有用な情報を交換することにあるのではなく、メッセージの交換を成立させることによって『ここにコミュニケーションをなしうる二人の人間が向き合って共存している』という事実を確認しあうことにある」(内田樹「現代思想のパフォーマンス」< クロード・レヴィ=ストロース>)・・・ウーン。
⑤ 「人間はボートを漕ぐように背中から未来に入っていく」
未来のことなど誰にもわからない。経験したこと、経験しつつあることが背中から視界に入ってきて、その次に現れるであろう光景を想定するしかないのだ・・・と思うのだが、どうだろう。

13.今回のコメントに関する< メディアノート>-それぞれNoをクリック
No41.[インターネットとテレビの『入れ子構造』という仮説について]
No67.[技術の社会化/近代と現代]
No83.[中国の近代・日本の近代…中国断章/貴州・紹興・上海]
Mo97.[ガラパゴス・ポストモダン・近代の超克」
No99.[広告を考える]
No116.[近代の終焉?]窶煤uポスト戦後社会」を読む-
No119.[テレビ的行為とは何か]-放送人の世界・村木良彦-
No120.[テレビジョンの構造転換]-補・村木良彦のテレビ論について-
No136.[< 想像力>が情報を< 放送情報/番組>にする]
No142.[「将来研」・補遺]-< 危うさ>こそ放送の可能性の原点-
No143.[テレビジョン的身体的]-放送人の世界 今野勉・人と作品-
No147.[情報“系”の中のテレビジョン]
No148.[見るべき程のこと]

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 < アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは”蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいからNHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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