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20118/24

「放送人」はシーラカンスか? 前川英樹

「放送人の会」という会がある。
会の趣旨は「局やプロダクションを問わず、番組制作の携わってきた者、あるいは携わっている者の集まり」であるが、番組という放送表現、あるいは更に広く放送メディアそのものに関心のある人に、開かれた場だと考えてよいだろう。
ぼく自身は三年ほど前に入会した。もちろん、会の存在は隋分前から知っていたが、なんとなく、例えば二百勝投手、二千本安打の打者の「昭和名球会」みたいな感じがしないでもなかったので、些か敬して遠ざけてきた感もある。もちろん、実際はそうではない。色んな人がいる。
しかし、だからといって「放送人」なる人種が明確に規定されているかといえばそうでもない。「私は放送人だ」といえば放送人なのだ。自分が誰であるかは自分が規定する、そういう集団、あるいは運動体は悪くない。但し、私は放送人だと思う人がこれからどれほど出てくるか、組織としてはそれが問題だ。因みに、「新聞人」の方がもう少し分かりやすく、カテゴリーとしても明確だろう。
そのあたりは「会」としても意識していて、3年ほど前のことだろうか、「ネット時代、放送はシーラカンスになるのか」というシンポジゥムを主催している。この時、放送人の立場で参加する予定だった大山勝美さんは、「放送は永遠のシーラカンスである」という趣旨で発言するはずだった。ところが、直前に体調を崩し、なんとこちらにお鉢が回ってきた。流石に「永遠のシーラカンス」という訳にもいかず、「いま、放送はシーラカンスになっている暇はない」ということを言って何と代役を務めたのだった。
それよりも、その時ハッと思わせられたことがある。
その会場で、若き日の、昭和30年代半ばだろう、大山さんが演出したドラマの映像(工場のロケシーン)が、数分間紹介されたのだった。そのモノクロのアナログ映像は、デジタル・ハイビジョンの映像を見なれた目には甚だしく鮮明さに欠け、またその頃のロケーション機材も大型鈍重で、その上VTR編集が制約されていたため、カットバックのテンポは間が空いたものだったが、それにもかかわらず、その工場のシーンに登場する若者たちの汗のにおいが立ち昇るのが、まことにリアルに感じられたのだった。
それは古いニュース映画を見た時の、あのノスタルジーとはまた違う、もっと感情の内側に食い込んでくるような、そんな揺さぶられ方を感じたのだった。
肝心なことは、その映像が何を再現しているかではなく、何を表現しているか、なのだ。あるいは、表現とはノイズと不可分だ、ということかもしれない。
情報処理技術としてのデジタルは圧倒的に優れている。そして、情報の汎用性を高めるという点で、メディアのデジタル化は不可避であり、不可逆的である。しかし、そのことと<表現>の問題は、別なのだ。1999年に「地デジ不可避宣言」を書いた時、それはテレビメディアの在り方を環境的に変えてしまえ、と思ってそうしたのであって、テレビにおけるメッセージや表現が、本質的に無効であると思ったのではない。むしろ、その有効性・可能性をネットとデジタルの時代にどう現実化するかがテーマだったのだ。「テレビとインターネットの入れ子構造」論はそこから出てきたのだし、それ故に「シーラカンスになっている暇はない」と言ったのだった。
若し、いまテレビ番組が<表現>の問題をサボっているとしたら、ネット時代であろうがなかろうが、それ自体が怠惰なのだ。テレビ番組が、ケータイによる会話の素材として見られるようになってしまったのだから、そこでどのような表現を追求するかは意味がなくなっているとしても、それは自分がどのようにテレビに関わるかという問いを放棄して良いということにはならない。それが職業というものだろう。
「放送人」という存在が時代からズレテいるのではない。そのように自分の仕事を意識できない、そういう放送の状況が問題なのだ。
このことは、震災や原発をどう伝えるかということにつながる。表現とは、一つの視点を示すことであり、ニュースもドキュメンタリーも、そのことに変わりはないからだ。

今回何でこんなことを書いているかといえば、「放送人の会」のホームページをリニューアルすることになったからだ。というより、リニューアルしないとほとんど意味ない状態だったのだ。「放送人」という存在が時代からズレテいるのではない、と書いたが、それにしても情報発信しないホームページはやっぱり駄目だ。それでは、時代からズレているといわれてもしょうがない。
というようなことに関わりつつ、あらためて「放送人」ということを考えたのだった。思うに、一方では「ハード・ソフト一致」という古典的?なメディアの在り様を前提にし、他方では「コンテンツはメディアを選ぶ」という命題に向き合うのが、放送人のというものではあるまいか。

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。

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